ジャコバン派
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ジャコバン派(ジャコバンは, Jacobins)とは、フランス革命時にできた政治クラブの一つである。マクシミリアン・ロベスピエールが中心となって急進的なフランス革命の推進を行った。
元々は、ジャコバン・クラブというクラブであったが、右派(フイヤン派)やジロンド派の脱退により、左派集団が最後に残った。特に山岳派(さんがくは, Montagnards, モンターニュ派とも)と呼ばれる集団が主導権を握っていた。なお、広義の意味として、ジャコバン・クラブに属していた市民をジャコバン派ということもある。
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[編集] 経緯
[編集] 設立
三部会の第三身分の議員のうち、ブルターニュ出身議員で構成されたブルトンクラブが原型である。ヴェルサイユ行進ののち、ジャコバン修道院で集会が行われるようになり、ジャコバン・クラブと呼ばれるようになる。
[編集] 国王処刑
1791年6月のルイ16世一家の国外逃亡未遂(ヴァレンヌ事件)に伴い、国王の責任を追及する左派と、議会と国王を共存させようとする右派が対立した。立憲王政を目指す右派はフイヤン派を結成し、ジャコバン・クラブから脱退する。
1792年、革命に協力的でない国王や、反革命の立場を崩さない王妃マリー・アントワネットが画策する中、他のヨーロッパ諸国との戦争の気運が高まる。それに対し、ジャコバン・クラブ内では、主戦派と反戦派との対立が始まる。議会では主戦派のジロンド派が実権を握り、4月20日、オーストリアに対し、宣戦を布告した。しかし、革命の余波が軍隊に及んでおり、十分な指揮系統のないフランス軍は敗戦を重ねる。またこのとき、マリー・アントワネットがフランス軍の作戦を敵軍へ提供していたと言われている。
プロシア軍が参戦するなどの情勢の変化や度重なる敗戦の中、反戦派の中心であったロベスピエールらが先導し、王権の廃止を要求、実現させる。
やがて、国民公会と名のついた議会が開催される。ジャコバン・クラブの議員も参加していたが、ブルジョワを支持基盤とするジロンド派と、民衆を支持基盤とする山岳派との対立が深刻になっていった。国王裁判で対立した両派であったが、ロベスピエールや、サン・ジェストといった山岳派の演説が勝り、1793年1月21日、国王を処刑する。
[編集] 山岳派独裁
国外では全ヨーロッパを敵にし、国内では山岳派に圧倒され始めたジロンド派は、山岳派の主要人物の拘束を図る。しかし、5月26日にロベスピエールがジャコバン・クラブで行った演説によって、ジロンド派は国民公会より追放される。
同年、通称ジャコバン憲法と呼ばれる憲法が採択される。これは山岳派の理想が反映された憲法であったが、結局施行されることがなかった。やがて、ロベスピエールが属する公安委員会が革命の遂行のため、あらゆる権限を有するようになる。
次第に山岳派による独裁政治が始まり、公安委員会を中心にして、最高価格法や革命暦の採用などが行われていった。独裁政治は反革命派の粛清といった名目の下、次第に恐怖政治へと変化する。
大胆な政策の実行や、反革命派の粛清により、一応の安定をみたフランス国内であったが、山岳派内部で恐怖政治に対する見解の相違から、二派(「寛容派」と「過激派」)に分裂する。ロベスピエールは、分裂した双方の派閥をそれぞれ粛清し、自らに権力を集中させ、恐怖政治を継続させた。
[編集] 終焉
極端な権力の集中と恐怖政治の実行により、ロベスピエールは次第に孤立していった。やがてテルミドールのクーデターが起こり、ロベスピエールが失脚すると、同年11月にジャコバン・クラブが閉鎖される。
1795年、すべての政治クラブの活動が禁止されると、地方に存在していたジャコバン派の勢力も急速に衰退する。ただしナポレオンによるブリュメールのクーデター(1799年)時にはフランス全土におよそ一万人のジャコバン派とされる実勢力はあった。それらを統べるのは、ベルナドット将軍ではあったが、騒々しさの割りに将軍自身の勇気の無さと、まとまりの無さから自然消滅してしまう。しかし、ジャコバン派の理念は後のロシア革命に影響を与えた。
[編集] 関連項目
- 共和政ローマ - ロベスピエールらが手本とした共和制政治
- ナポレオン・ボナパルト - 第1執政となり、フランス革命を終結させる