タンジマート
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タンジマート(تنظيمات)とは「タンジマーティ・ハイリエ(恩恵改革)」の略。オスマン帝国はスルタン専制体制の下で、西欧の市民社会の理念を導入する形での改革を目指した。アブデュルメジト1世は、ムスタファ・レシト・パシャが起草したギュルハネ勅令で、ムスリム・非ムスリムに関わらず、全ての帝国臣民は法の下で平等であること、全臣民の生命・名誉・財産の保障、裁判の公開などを実現。さらに、民衆を苦しめていたイルティザーム(徴税請負制度)は段階的に廃止された。この改革の集大成が1876年に発布されたミドハト憲法で、これはアジア最初の憲法である。これは、国会の開設など画期的な内容を持っていた。
[編集] 経緯
19世紀になると、バルカン半島でもナショナリズムが高まってきた。1821年、ギリシャ独立戦争が始まり、最終的にはロシアの介入によってギリシャの独立は達成された。戦争中、オスマン政府は腐敗したイェニチェリ軍団を廃止したが、戦後にはエジプトのムハンマド・アリーがパシャの称号やシリアの割譲を要求するなど、帝国の威光はますます低下していた。この帝国の危機を救い、スレイマン大帝時代の安定を目指すべく、スルタンのアブデュルメジト1世は、外務大臣のムスタファ・レシト・パシャに命じてタンジマート改革に着手させた。
この改革の精神は帝国の中央ではともかく、地方では全く理解されず、かえって民衆の不満を拡大。1838年に結ばれたトルコ・イギリス通商条約以降、ヨーロッパ諸国のトルコへの経済的進出も激化した。76年に即位したアブデュルハミト2世はミドハト・パシャを追放し、露土戦争敗北後憲法を停止した。彼の専制はこの後、30年にわたって続く。