ソビエト宮殿
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ソビエト宮殿(―きゅうでん、ソビエト大宮殿、ロシア語:Дворец советов、英語:Palace of Soviets)は、旧ソビエト連邦時代のモスクワで、クレムリンから見てモスクワ川の対岸にあたる場所に計画された建築計画である。世界最大のビルが建設される予定だったが、ついに実現しなかった。
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[編集] 設計
ソビエト政府の大会議場となる「ソビエト宮殿」計画は1931年7月18日、イズヴェスチヤ紙に国際建築設計競技(コンペ)の要項が掲載された。
1933年に開催された設計コンペでは多くの候補、とりわけル・コルビュジエ、ヴァルター・グロピウス、エーリヒ・メンデルゾーンといったモダニズム建築家の案を退け、ボリス・イオファンの案が選ばれた。イオファンの勝利はソビエト建築史上の転換点となるものであり、ソビエト政府がモダニズムや構成主義といった前衛的な建築から、スターリン様式といわれる歴史主義建築・古典的な様式へと方針を変えるきっかけとなった。
イオファンの案では、高さ100mの巨大なウラジーミル・レーニン像が建物頂上に立っていた。その下の超高層ビルは、宮殿に入る大階段のあるジッグラトのような基盤から列柱のある四角い階段状の構造体が立ち上がり、その上に高く太い円筒形の層が積み重なって、頂上に近づくにつれセットバックして細くなってゆく構造であり、まるでピーテル・ブリューゲルの描いたバベルの塔を思い起こさせる外観であった。像の頂上までの高さの合計は415mを計画しており、エンパイア・ステート・ビルディングより高い、当時の世界最高の建築物となる予定であった。宮殿には大きさの異なる大会堂が二つと、いくつかの博物館・美術館が入居し、低層階と地下は自動車などからの乗降のための場所、倉庫、機械設備室が配置されていた。
宮殿は天に向かって伸びる巨大な梯子のような印象を与えるよう意図されていた。宮殿の主目的は全国ソビエト大会(Congress of Soviets)の入居であり、ゆくゆくは世界ソビエト大会の開催も念頭にあったと思われる。
[編集] 建設
宮殿はモスクワ最大の教会であった救世主キリスト大聖堂の敷地に建てられる予定となっていた。設計コンペが始まる前、1931年7月には教会の解体作業が始まり、1931年12月5日には爆破作業[1]によって教会の構造体は完全に破壊された。しかし、敷地の隣を流れるモスクワ川からの地下水の浸出によって、掘削されていた広大な教会跡地はたちまちよどんだ水溜りとなり、建設作業を遅らせた。政府の命令で宮殿建設工事は最重要事業となり、専門の建材が開発され建設のための鉄道支線も作られた。1939年には基礎の上部はかなり出来上がっていた。[2]
第二次世界大戦期、1941年のバルバロッサ作戦に始まる独ソ戦によりモスクワへのドイツ軍の攻撃が始まり、建設作業は停止された。基礎建設工事は再開されることはなかった。[3][4]
戦後、1940年代末まで計画は残っていたが、1953年のヨシフ・スターリン死後、ニキータ・フルシチョフはついに計画を白紙に戻した。唯一完成していた豪華な地下鉄駅はクロポトキンスカヤ駅と改名された。大きな空き地となっていた建設用地は、出来ていた基礎を使って公共スイミングプールとなった。
ソ連崩壊後、大聖堂の再建機運が高まり、ソビエト宮殿建設が中断された跡地のプールは閉鎖された。1995年1月7日に巨費を投じた大聖堂再建が始まり、2000年8月19日に元通りの姿がよみがえっている。
[編集] 関連項目
[編集] 外部リンク
- 計画図と建設時の写真
- 敗退したル・コルビュジエ案
- 敗退したル・コルビュジエ案 - このコルビュジエ案が丹下健三のその後の建築思想に大きな影響を与えた。
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