ジョン・W・クリスティー
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ジョン・ウォルター・クリスティーは、アメリカ合衆国の戦車発明家。1865年5月6日、ニュージャージー州のリバーエッジに生まれ、鉄工所勤務を経て蒸気船エンジニアを経験、初期の潜水艦の研究にも携わった。彼が率いるフロント・ドライブ・モーター社は第一次大戦中から自主的に自走高射砲や戦車の開発を始めており、後に高速戦車の研究開発で知られることとなる。
クリスティー式サスペンションは大型の接地転輪の一つ一つを、二重構造の車体側面に収納したコイルスプリングで独立懸架させたものである。ストロークが大きく従来のボギー型のリーフスプリング式に比べ路外機動性に優れ、また最後部の接地転輪を起動輪とチェーンで繋いで駆動させることで、履帯を外している際は路上での高速走行が可能な装輪装甲車となった。装軌走行中は操縦手の左右のブレーキレバーにより、また装輪走行中はステアリングハンドルを取り付け、先頭の接地転輪を左右に振ることで方向転換を行った。
M1910から始まるクリスティー式戦車は、航空機用水冷発動機をもとにしたリバティーエンジンの馬力の大きさと相まって、M1928で(非武装の状態で)装輪111.4km/h、装軌68.5km/hという当時の戦車としては圧倒的な速度性能を発揮した。今まで無関心であった米陸軍もこれには興味を示し少数を採用したが、より大きな興味を示したのはソ連とイギリスであった。(ポーランドも興味を示し購入を検討したが、入手に至っていない。)1931年にM1928の砲塔をもたないデモ車であるM1940を二輌購入したソ連軍は試験を重ねて改良、リバティーの国産版であるM-5エンジンを搭載したBT戦車シリーズを生み出す。また、英軍も輸入を試みたが「軍事機密」として米政府の今更な横槍が入り、農業用トラクターとして輸出申請したり、部品レベルにまで解体して偽装、ようやく入手できた。その後の研究開発により、A-13(Mk.III巡航戦車)からクリスティー式サスペンションを採用している。
旧日本軍もノモンハン事件で、BT戦車を相手に苦戦している。まず当時の日本の主力戦車「八九式中戦車」の対戦車戦闘を考慮していない火力性能で苦戦したことはもとより、履帯を狙い撃ち切断しても、転輪だけで走り回る姿に驚嘆したという。(もっともBTには装甲が薄く炎上しやすい欠点があり、ソ連崩壊後に公開されたデータでは相当の損害を出していたことが判明している。)
このように一見便利なシステムであったが、履帯を付けたり外したりする手間がかかりすぎ不便であり、量産された戦車としてはBTシリーズで採用されたに止まり、続くT-34シリーズや英軍の巡航戦車ではクリスティー式であっても装輪走行はできなくなっている。また、既に大戦前にソ連軍の他の戦車で採用されていたトーションバー式サスペンションの方が路外での機動性や乗り心地により優れており、戦後に開発された量産型戦車でクリスティー式の足回りを持つ物は(英軍のアヴェンジャー等、大戦中に開発された戦車のシャーシを流用したもの以外には)採用されていない。
なお、上部支持転輪が無く大型接地転輪を持つ戦車を全てクリスティー式と誤解する人も多い。例えば上部支持転輪の無いT-43、T-44、T-54/55、T-62はクリスティー式ではなくトーションバー式であり、逆に上部支持転輪のある英軍の巡航戦車 コメットはクリスティー式である。両者は車体側面のコイルスプリングを使っているか、床下のトーショーバースプリングを使っているかで区別される。
なおクリスティーは後に、ソ連に強力な戦車を作らせるきっかけとなった技術を売却してしまったことを後悔していると語っている。