ジャッキー・イクス
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
F1での経歴 | |
国籍 | ベルギー |
活動年数 | 1967 - 1979 |
所属チーム | クーパー, フェラーリ, ブラバム, マクラーレン, アイソ, ロータス, ウィリアムズ, エンサイン, リジェ |
出走回数 | 114 |
タイトル | 0 |
優勝回数 | 8 |
通算獲得ポイント | 181 |
表彰台(3位以内)回数 | 25 |
ポールポジション | 13 |
ファステストラップ | 14 |
F1デビュー戦 | 1967年イタリアGP |
初勝利 | 1968年フランスGP |
最終勝利 | 1972年ドイツGP |
最終戦 | 1979年アメリカ東GP |
ジャッキー・イクス(Jacky Ickx、1945年1月1日 - )は、ベルギー生まれの、かつてF1で活躍した元レーシングドライバーである。また、ル・マン24時間レースでの活躍も有名である。
[編集] プロフィール
1967年にニュルブルクリンクで行われたドイツGPにおいて、ティレルF2チームから参戦。予選において、並み居るF1ドライバーを凌ぎ、ジム・クラーク、デニス・ハルムに次ぐ総合3位に相当する予選タイムをマーク。レースでも、グリッドはF1の後ろとなるにも関わらず、早くも4周目終了時には12台を抜いて5位を走行して見せた。惜しくもレースはリタイアに終わったが、この走りはF1チームのマネジャー達に対する強いアピールとなり、イタリアGPではクーパーのワークスシートを獲得。初戦で早くも6位入賞を果たした。
翌1968年にはフェラーリへ移籍。フランスGPで初優勝、ドイツGPではポールポジションを獲得する活躍を見せる。ブラバムへ移籍した1969年と、フェラーリへ戻った1970年にはそれぞれ2勝、3勝をマークして、ドライバーズランキング2位となった。特に1970年は、キャリアの中でも最もチャンピオンに近づいた年であったが、ランキングトップだったヨッヘン・リントの事故死を受け、非公式ながら「死んだ人物からチャンピオンを奪い取るわけにはいかない」と発言している。しかしながら、事実として、リントが死亡したイタリアGPの前戦オーストリアGP終了時点で、45ポイントを獲得してランキングトップだったリントに対して、イクスはリントほかジャック・ブラバム(25p)、デニス・ハルム(20p)にも遅れをとる19ポイントを獲得していたに過ぎず、トラブルでリタイアを余儀なくされたイタリアGPを除く最終3戦を3連勝して、ようやくリントを1ポイント上回れるという大差を付けられており、イクスの意思に関わらず、タイトルを獲れる可能性は元々非常に小さなものであった。実際には、イクスはこの最終3戦を最終戦メキシコGPの優勝を含む優勝2回、4位1回で終え、この3戦だけで21ポイントを稼ぐ大健闘を見せており、それに加え、最終的にこの年のランキング2位を獲得できたのはジャック・ブラバムやハルム、オーストリアGP終了時点で同点だったジャッキー・スチュワートがシーズン終盤になって失速したことに助けられた部分も大であった。
この1970年をピークとして、イクスのF1キャリアは下り坂を迎えることとなる。折からのグランドエフェクトカーの時代に彼のドライビングスタイルが合わなかったことも一因ではあった。その後、エンサインやリジェなどの中堅チームに在籍し、1979年をもってF1から引退した。
F1引退後のイクスは、F1参戦中より活躍を見せていたスポーツカーを中心に活動をすることとなり、特にル・マンにおいては、1969年・1975年 - 1977年・1981年・1982年と実に6勝をマークした。これは2005年にトム・クリステンセンに破られるまで、長く最多勝記録であった。また、1991年にはマツダのスーパーバイザーをつとめ、マツダの優勝に貢献した。ルマン優勝後、マツダはイクスに対してボーナスの提供を申し出たが、イクスは「私はマツダを優勝させるために契約したのだから、優勝したからといってボーナスを貰う理由は無い。」と固辞したエピソードがある。
1983年にはパリ・ダカール・ラリーにも参戦し、優勝を飾った。
モナコGPの協議役員も務め、チェッカーフラッグを振る役目を果たしていたが、1984年の豪雨のレースでは、レース中盤に赤旗による打ち切りの判断を下したことが、猛然と迫ってくるアイルトン・セナが首位走行のアラン・プロストを交わすことを阻止する為だったのではないのかと物議を醸したこともあった。 しかし、当時のモナコは視界がまったく見えないほどの豪雨であり協議側も順位を把握できない危険な状態となっていたため、 この論争はあくまで噂に過ぎない。