サパ・インカ
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サパ・インカ(Sapa Inka、英:Sapa Inca、ケチュア語で唯一の王)とは、インカ帝国で使用された君主の称号(君主号)。一般に「皇帝」と訳されることが多い。
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[編集] 概要
インカ帝国の君主は、サパ(Sapa)とアプ(Apu、「神聖な」の意)の称号を有した。
インカ帝国内の統治構造は、2つの二項対立(双分制)の組み合わせによって成立する三分制(セケ・システム)という構造になっていた。これは、全ての権限、空間等を上(ハナン、hanan)と下(ウリン、urin)に分けて考える、いわゆる双分原理によるものであり、下部も更に2分されることにより成立した構造である。この1対2に3分割された空間、権力等を、それぞれコリャナ、パヤン、カヤオと言った。皇帝の権力についても同様の構造となっており、インカの王は同時期に3人存在した。それぞれがコリャナ、パヤン、カヤオに対応したが、そのうち最上位に認識された王をサパ・インカと言った。
インカ皇族は、近親結婚によって生まれた一族であり、サパ・インカの地位は世襲された。これは彼らの宗教観から、広く交雑する事で、「皇族」の血筋が汚されると考えたためである。サパ・インカは神の化身としても考えられ、当時の官僚は、同時に神官でもあった。
[編集] 初期王朝
クスコに成立した初期王朝のサパ・インカは次のとおりである。以下、太字斜体はケチュア語。
- マンコ・カパック(Manqu Qhapaq、英:Manco Capac)
- シンチ・ロカ(Sinchi Ruq'a、英:Sinchi Roca)
- リョケ・ユパンキ(Lluq'i Yupanki、英:Lloque Yupanqui)
- マイタ・カパック(Mayta Qhapaq、英:Mayta Capac)
- カパック・ユパンキ(Qhapaq Yupanki、英:Capac Yupanqui)
初期王朝は別名を「下王朝」(hurin)といい、事績は若干伝わっているものの、たぶんに伝説的である。特に初代のマンコ・カパックについては実在が疑問視されている。なお、カパックは後に将軍を意味し、シンチは指導者を意味する。一般的には、13世紀に王朝が始まったと考えられている。
[編集] 第2王朝
クスコ第2王朝のサパ・インカは次のとおりである。
- インカ・ロカ(Inka Ruq'a、英:Inca Roca)
- ヤワル・ワカ(Yawar Waqaq、英:Yahuar Huacac)
- ヴィラコチャ(Wiraqucha、英:Viracocha)
- ウルコ(Urco、英:Urco)
- パチャクテク(Pacha Kutiq、英:Pachacuti、在位1438年-1471年)
第2王朝時代にはヴィラコチャまでは祭政一致の王としてカヤオの王がサパ・インカとなっていたが、パチャクテク以降はコリャナの王が俗権を掌握しサパ・インカとなり、カヤオの王は宗教儀礼を担い、コリャナの王の下に立つこととなった。この王朝を「上王朝」(hanan)ともいう。
近年、このような体制の変革から、パチャクテクによるクーデターを推察する見解が出されている。
ウルコはヴィラコチャの共同統治者であったとする文献もあり、歴代に入れる年代記も存在するが、一般的には歴代に数えない。
[編集] インカ帝国
ケチュア族(=インカ族)は、ヴィラコチャの頃まではクスコ周辺の小さな部族にすぎなかったが、歴史上実在がほぼ確定的なインカ帝国(タワンティンスウユ)の最初のサパ・インカとされているパチャクテク以降、大帝国に拡大した。歴代皇帝は次のとおり。
- パチャクテク(Pacha Kutiq、英:Pachacuti、在位1438年-1471年)
- トゥパック・インカ・ユパンキ(Tupaq Inka Yupanki、英:Tupac Inca Yupanqui、在位1471年-1493年)
- ワイナ・カパック(Wayna Qhapaq、英:Huayna Capac、在位1493年-1527年)
- ワスカル(Waskhar、英:Huáscar、在位1527年-1532年)
- アタワルパ(Ataw Wallpa、英:Atahualpa、在位1532年-1533年)
パチャクテクは4つの州(suyu)に帝国を再編成し、アポと呼ばれる地方官を配置した。また、チムー王国の方式を取り入れ、所有権と水利権を分割した上で土地所有権は全てインカ帝国に属することとされた。
エクアドル南部のカニャーリ族の女を母に持つワイナ・カパックの代に至り、インカ帝国は現在のコロンビア南部からチリ北部に渡る最大版図を有することとなった。ワイナ・カパックはキトを第二の首都としたが、広大な帝国支配のため常時転戦を重ねることとなった。
ニナン・クヨチは、数日しか在位しなかったため、しばしばサパ・インカ歴代から外されている。彼は皇太子の地位にいたが、父皇帝ワイナ・カパックが天然痘により病死した直後に即位したものの、数日を経ずして同様に天然痘により病死した。これがワスカルとアタワルパによる継承戦争につながり、スペイン人による征服の遠因となった。
[編集] スペイン人による征服
ニナン・クヨチの死とともに正室の子であるワスカルがクスコで即位、側室の子のアタワルパはキトに幽閉されたが脱走し、5年間にわたる内乱が起きた。スペイン人のコンキスタドールであるフランシスコ・ピサロは、この内乱の最中にインカ帝国に侵入し、会戦で勝利しワスカルを幽閉した直後のアタワルパを監禁し、ワスカルとアタワルパ両名を処刑、ここにインカ帝国は瓦解した。
一般的にはアタワルパはワスカルに勝利した後、1532年に即位したとされているが、以上の経緯により即位の事実があったかどうかに異論も出されている。
[編集] 新インカ帝国
スペインの征服の後も、インカ帝国の統治体制が消滅するまでの間、数人のサパ・インカが存在している。
スペイン人の傀儡として4代のサパ・インカがいる。
- トゥパック・ワルパ(Tupaq wallpa、英:Tupac Huallpa、在位1533年)
- マンコ・インカ・ユパンキ(Manqu Inka Yupanki、英:Manco Inca Yupanqui、在位1533年-1536年):逃亡して亡命政権を開く。
- パウリュ・トゥパック・ユパンキ(Pawllu Tupaq Yupanki、英:Pawllu Tupac Yupanqui、在位1537年-1549年)
- カルロス・パウリュ・インカ(Carlos Pawllu Inka、、英:Charles Pawllu Inca、在位1549年-1572年)
一般的には、亡命政権を打ち立てたマンコ・インカ・ユパンキを正統と見なし、パウリュ・トゥパック・ユパンキ、カルロス・パウリュ・インカの2代は歴代に含めない。
ビルカバンバ(Vilcabamba)を拠点に山岳地帯から熱帯雨林地帯にかけて支配した亡命政権「新しいインカ帝国」皇帝としては、次のとおり。
- マンコ・インカ・ユパンキ(Manqu Inka Yupanki、英:Manco Inca Yupanqui、在位1536年-1544年)
- サイリ・トゥパック(Sayri Tupaq、英:Sayri Tupac、在位1545年-1560年)
- ティトゥ・クシ(Titu Kusi、英:Titu Cusi、在位1560年-1571年)
- トゥパック・アマル(Tupaq Amaru、英:Túpac Amaru、在位1571年-1572年)
以上により、一般的に最後のインカ皇帝(=サパ・インカ)と呼ばれる皇帝は3人いることとなる。実質的な皇帝の最後はアタワルパ、スペイン人の傀儡として名目的に即位した皇帝の最後はマンコ・インカ・ユパンキ、亡命政権の最後の皇帝はトゥパック・アマルである。