サチェル・ペイジ
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サチェル・ペイジ(Leroy Robert "Satchel" Paige、1906年7月7日 - 1982年6月8日)は、アメリカの野球選手、しばしば偉大なピッチャーのひとりとして挙げられる。
[編集] 生い立ち
1906年、父は庭師、母は内職を営む貧しい家庭に12人兄弟の7番目としてアラバマ州モービルのスラム、サウスベイに生まれる。本名はリロイ・ロバート・ペイジ(Leroy Robert Paige)。 「サチェル」というのはニックネームで、その由来は諸説あるが、少年時代に荷物運びで長い棒に複数の荷物をかけて持ち運ぶという仕事をしていたため友人から「歩くサッチェル・ツリー(ショルダーバッグをぶら下げておくハンガーのこと)」と言われたという逸話が最も有力であり、それ以来、この名前で通したという。
1918年、12歳のときに万引き癖のため実業学校に入らされたペイジは、そこでエドワード・バードの指導のもとピッチングスキルを身につけた。1923年に弟ウィルソンが所属していたセミプロチーム、モービル・タイガースに入団する。チームには後にニグロ・リーグのスタープレーヤーとなったテッド・ラドクリフ、ボビー・ロビンソンもいた。
ニグロ・リーグ時代に2500試合に登板、2000勝以上をあげうち完封勝利は350以上、無安打無得点試合55試合など、にわかに信じがたい伝説が残る。一説にはこれは中南米の野球チームとの交流戦などをすべて含めた数字ではないかともいうが、それを差し引いても傑出した名投手だったのは確かである。1930年、メジャーリーグ選抜との交流戦で22奪三振完封勝利を記録している。9回ウラにワザと走者をためて無死満塁にし、しかも野手を全員ベンチへ引き上げさせて、打者に勝負を挑み観客を沸かせたという逸話も残っている。
1947年ロサンゼルス・ドジャースがジャッキー・ロビンソンと契約してメジャーリーグの「カラーライン」が破られた時には、40歳に達していた。「待っても待っても、そんな日は永久にやって来ないんだと思っていた、その日は突然訪れた。だが、それは私にではなかった」と語っている。しかし翌1948年シーズン途中にクリーブランド・インディアンスに入団、42歳の史上最高齢新人投手として6勝をあげリーグ優勝に貢献した。
メジャーで最後の登板が59歳の時だが、生年に異説もあり60歳をこえていたのではないかともいう。いずれにしても最高齢登板記録なのは揺るぎもない。
1971年野球殿堂入り。