サイクス・ピコ協定
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サイクス・ピコ協定( - きょうてい、英 Sykes-Picot Agreement)とは第一次世界大戦中の1916年5月16日にイギリス、フランス、ロシアの間で結ばれたオスマン帝国(トルコ)領の分割を約した秘密協定。イギリスの中東専門家マーク・サイクス (Mark Sykes) とフランスの外交官フランソワ・ジョルジュ=ピコ (François Georges-Picot) によって原案が作成され、この名がついた。
この協定は、それよりも前のアラブ人の独立を約束するフサイン・マクマホンの書簡とは矛盾する内容でもあった。
[編集] 概要
第1次大戦でオスマン帝国はロシア帝国に対抗するためドイツ帝国、オーストリア・ハンガリー帝国、イタリア王国の三国同盟の側に立って参戦した(1914年10月)。
イギリスはオスマン帝国との戦いを有利にするため、オスマン帝国領下にあったアラブ人を味方に引き入れようと考え、大戦後にアラブ人の独立を約束したいわゆるフサイン・マクマホンの書簡を交わした(1915年7月~1916年3月)。マッカ(メッカ)の太守フサインはこれに呼応して、1916年6月、オスマン帝国に対して蜂起を開始し、イギリスもこれを支援した。フサインは王を称してヒジャーズ王国を創始した。
一方、これとは別に連合国側は大戦後のオスマン帝国における勢力分割について秘密裏に協議していた。1915年11月頃から交渉がはじまり、イギリスのマーク・サイクスとフランスのジョルジュ=ピコによって案の作成が進められた。その後、ロシア帝国も加わってペトログラードで秘密協定が結ばれた。フサインの蜂起直前の1916年5月16日のことである。内容は以下のとおり。
- シリア、アナトリア南部、イラクのモスル地区をフランスの勢力範囲とする。
- シリア南部と南メソポタミア(現在のイラクの大半)をイギリスの勢力範囲とする。
- 黒海東南沿岸、ボスポラス海峡、ダーダネルス海峡両岸地域をロシア帝国の勢力範囲とする。
この協定は、フサイン・マクマホンの書簡とは矛盾する内容でもあった。これとは別に後のイスラエル建国につながるバルフォア宣言 (1917年11月)もなされ、場当たり的な相矛盾する外交が繰り返された。
1917年にロシア革命が起こると、同年11月に革命政府によって旧ロシア帝国のサイクス・ピコ協定の秘密外交が明らかにされ、アラブの反発を強めることになった。
フサインの子ファイサル率いるアラブ軍は、1918年9月にシリアのダマスカス入城を果たしたが、この地を自国の勢力範囲と考えるフランスの反対を受け、1920年7月にダマスカスから追放された。これより前の1920年4月にはサン・レモ会議が開かれ、この地域のイギリス・フランスの勢力分割がほぼ確定していた。
ファイサルはその後、イギリスからイラク王にすえられた。また、フサインの子アブドゥッラー王子はイギリスからトランスヨルダンの首長にすえられ、これは現在のヨルダン王国となっている。
フサインが打ち立てたヒジャーズ王国は、その後、フサインがカリフを称したことで、イスラム教指導者層の反発も招き、イブン=サウードによって1925年にヒジャーズ王国は倒された。イブン=サウードは後にサウジアラビアを創始し、初代国王となった。
第1次大戦で敗戦国となったオスマン帝国は解体し、トルコ革命を経て、現在のトルコ共和国へと再生した。イギリスとフランスの中東分割は、1920年4月のサン・レモ会議でほぼ確定していたが、1923年にトルコ共和国がローザンヌ条約に調印したことで正式に分割された。
サイクス・ピコ協定や以後の分割交渉による線引きは、後のこの地域の国境にも影響している。フランスの勢力範囲となったシリア地方からは後にレバノン、シリアが独立し、イギリスの勢力範囲からは後にイラク、クウェートなどが独立した。地域によっては人工的に引かれた不自然な国境線となっている。
その後、一連の矛盾外交によって生じたパレスチナ問題や、現在も不自然な国境で分断されているクルド人問題など多くの問題を生じた。
[編集] その他
- 映画「アラビアのロレンス」は、フサイン蜂起の頃を背景にしている。イギリスの工作員ロレンスの活躍を描く。多少、脚色が加わっているようだ。
- モスル地区(現在はイラク領)はその後の交渉でイギリスの勢力範囲となった。当時、開発が本格化しつつあった油田の存在が交渉に大きな影響を与えた。