グレッグ・レモン
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グレッグ・レモン(Greg LeMond、1961年6月26日 - )は、アメリカ合衆国の元自転車プロロードレース選手。1986年、1989年、1990年にツール・ド・フランス個人総合優勝を達成している。
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[編集] レース戦歴
レモンは1981年に、プロとしての一歩を踏み出した。シリル・ギマール(1979年ジュニア世界選手権メダリスト)の後見があったからだった。1982年の世界選手権で、レモンは経験ではなく実力で2位になれることを証明し、それは翌1983年のアメリカ人初の世界選手権優勝へと繋ってゆく。そして、彼はツール・ド・フランスへ目標を定めた。
1983年、レモン22歳の時、アメリカ人初の世界選手権チャンピオンになる。
1984年の初ツール・ド・フランスで、レモンは3位でゴールする。翌1985年、レモン24歳の時、ラ・ヴィ・クレールのチームオーダーで、チームキャプテン、ベルナール・イノーのアシストを努めることになった。それはレモンがツールで勝つ為ではない。この時イノーはレースをリードしていたが、途中転倒事故で負傷していた。このツールでレモンはイノーに次いで2位+1分42秒差でレースを終えた。イノーのツール・ド・フランス5勝のために自らの勝利を棒に振ったのだ。レモンはインタビューで、チームマネージャーとコーチのポール・コークリが大切なステージ中、イノーとのレモンの差は+3分以上あると、嘘を伝えていたと暴露した。
1986年イノーとレモンはどちらもラ・ヴィ・クレールのリーダーとして出場した。12ステージまでイノーがレモンに+5分リードしていた。しかし、次の日山岳コースでレモンが体調を崩すと、すかさずイノーがリードを始めた。結局2人がラルプ・デュエズ山頂の群衆の前に現れた時に、イノーはチームメイトのレモンに敵意むき出しであった。最終的にレモンはマイヨ・ジョーヌ (イエロージャージ) に袖を通した。去年の恩を仇で返すイノーに、レモンは感情を害した。
1987年4月20日、レモンにとって不幸な事故がカリフォルニアで起きた。ハンティング中、いとこの散弾銃の弾がレモンの胸に当たったのである。1987年ツール・ド・フランスの2ヶ月前である。レモンは都合2回、ツール・ド・フランス出場が不可能になった。
1989年ツール・ド・フランスで、レモンは体に37もの散弾片を残したまま (いくつかは心臓のそば) 、20位以内を目標にした。最終ステージ、パリでの個人タイムトライアルで、レモンは総合2位だった。ローラン・フィニョン (1983年・1984年ツール・ド・フランス個人総合優勝者) にタイム差+50秒で迫っていた。レモンは当時最新のエアロバーバイクでタイムトライアルに臨み、フィニョンにこのステージで逆転58秒差、総合で8秒差で個人総合優勝した。レモンが表彰台で喜びをあらわにするのとは対照的に、フィニョンは肩を落とし座り込んだ。フィニョンは特に言わなかったが、最終の何日かをサドルによる股ずれに苦しんでいた。数週間後、さらにレモンは世界選手権で2度目の優勝を果たす。レモンは自転車選手として初めて、スポーツ・イラステッド・マガジン誌の1989年度スポーツマン・オブ・ザ・イヤーの栄誉に輝いた。
レモンは1990年ツール・ド・フランスで只の一度も個人ステージ優勝なしに、3度目の総合優勝を果たした。ツール・ド・フランス史上この様なことはあまりない。
1992年にレモンは、アメリカ人初のツアー・デュポン勝者となる。しかしアメリカ人がツール・ド・フランスで次に結果を出すには1991年から1999年まで時間を要した。レモンは1980年代にアメリカ人が (自転車競技で) 記録を打ち立てる先駆けとなった。レモンの1992年ツアー・デュポンは、プロ選手として最後の優勝となった。その後1987年の怪我が起因と考えられる遺伝子病が進行し、プロ自転車選手として1994年12月引退した。
1997年のインタビューで、レモンは優勝し損ねた1985年ツール、狩猟事故後の1987~1988年、これら失ったチャンスを悔やんでいた。「仕方がないけど、レースの歴史は書き換えられないからね。」「でも、ツールで5回は優勝出来たはずなんだ。そう断言出来る。」
[編集] 引退後
サイクリングとフィットネス分野の専門性を生かして、引退後はLeMond Bicycles(現在はトレックの一部門)やLeMond Fitnessなどの会社を起こした。また、一時期、運転技術を競うレースから離れられず数年間モータースポーツにはまっていた。現在はミネソタ州メディナ在住。
[編集] 論争
2001年に、レモンは当時ツールドフランスを連覇中であったランス・アームストロングの成功をドーピングの力によるものと示唆して論争を巻き起こした[1]。さらにツール連覇を続けた2004年7月にも、ランスに対して、再び「もしもアームストロングがクリーンなら、まれにみる復活劇だ。そしてもしもクリーンではなかったとしたら、史上まれにみる茶番だ」とコメントした[2]。また「ランスにはなんでも秘密にしておける才能があるようだね。どうやってみんなに潔癖さを信じ込ませ続けているのか私には理解不能だ」とルモンド紙へのコメントで語った[3]。