グッチ
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グッチ(GUCCI)とは、世界的に有名なイタリアのファッションブランドである。 衣服は勿論、バッグ・財布・靴・香水・時計など幅広く手がけている。
また、会社組織としてのグッチ・グループを指すこともある。グッチ・グループは、フランスを本拠地とする流通会社PPR(元Pinault-Printemps-Redoute)の傘下である。グッチ・グループには、グッチ以外にも、イヴ・サンローラン、ブシュロン、セルジオ・ロッシなどのブランドがある。
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[編集] 創立者
グッチオ・グッチ(Guccio Gucci、1885~1953)
[編集] デザイナーの変遷
- 1989年 ドーン・メローが社長兼クリエイティブディレクターに就任。
- 1990年 トム・フォードがレディースウエアのデザイナーに就任。
- 1994年 クリエイティブ・ディレクターに就任。
- 2004年 トム・フォードが辞任。レディスウェアのデザイナーにアレッサンドラ・ファキネッティ(Alessandra Facchinetti)が就任。メンズウェアのデザイナーに、ジョン・レイ(John Ray)が就任。
- 2005年 レディスウェアのデザイナーにイタリア人であるフリーダ・ジャンニーニ(Frida GIANNINI)が就任。
- 2006年 メンズウェアのデザイナー、ジョン・レイが辞任。フリーダー・ジャンニーニがメンズウェアも手がけ始める。
[編集] 歴史
以下の文面を書く為にコピー及び、引用したサイトはありません。<編者・塵芥 ◆diEk0iTtGI >
- 「ビット・モカシシ」を初めて作ったのはグッチである。
- それは何も珍しいものではなく、スリップオン式のローファータイプの靴で、甲の部分に細い小さな金属をあしらったデザインのものを指す。
- この金属が馬具のハミ(ビット)の形をしている事から「ビット・モカシシ」と呼ばれる。
- グッチが靴製造を始めたのは1960年代であり、それ以前から製造されていたというのは都市伝説のような根拠の無い噂に過ぎない。
- もっとも、グッチ自身はそれを積極的に否定しようとしなかったのも事実ではあるが・・・
噂に尾ヒレが付き、背ビレが付き、胸ビレが付き、挙句の果てには胴体まで付いてしまった例を紹介しよう。
- 英和商品名辞典より要約して引用
- 「グッチは1904年にフィレンツェで貴族や軍人相手の高級馬具専門店としてグッチオ・グッチが創業し、第一次世界大戦後馬具の需要が落ち込んだので、バッグ類と靴の店に転向」
- しかし、グッチの靴は1960年代の「ビット・モカシシ」が最初である。
- しかも、馬具を製造・販売したという事実も無い。
- グッチ-抗争の家系より要約して引用
- 「グッチ家は、小さな皮革商店になる前に数世紀にも渡って王室に馬具を納入していた貴族向けの馬具製造業者だった。家系としてはメディチ家に関係する正当な位階と土地を有する紋章を持つ貴族の末裔である。」
[編集] グッチの正史
- 1881年グッチオ・グッチが生まれる。
- 父親のガブリエロ・グッチはフィレンツェで麦藁帽子の製造を行う「ガブリエロ」という零細帽子製造会社の社長であったが、会社経営にはあまり熱心ではなく、仕事は主に共同経営者のサンティーノに任せていた。
- その為、サンティーノが1908年に死去するとたちまち会社は窮地に陥ってしまった。
- しかし、それよりも10年ほど前にグッチオ少年はイギリス・ロンドンで一旗揚げようと決心し、蒸気船の期間助手として働きながらロンドンに辿りつく。
- ロンドンでは最下級の労働者としてではあったが、、最高級ホテルの「サボイ・ホテル」に職を得る。
- やがて、グッチオはサボイ・ホテルの皿洗いから一階のウェイターに出世する。
- それでも低賃金ではあったが、王侯貴族御用達ホテルであったのでチップには不自由しなかった。
- 更に、王侯貴族の立ち居振る舞いを間近で見る事で、持ち物や物の考え方などを学ぶ事が出来たのはチップ以上の価値があった事であろう。
- その事からグッチオが学んだ事は、「原価は何も意味を持たない。むしろ商品の値段が高ければ高いほどそれを所有する事の価値も高くなる」と言う事である。
- それらは後のブランドビジネスに大いに活かされる事となる。
- それら多くの事を学び、グッチオ・グッチがフィレンツェに帰るのは1901年の事である。
- 帰国後はいくつかの商店で働き、第一次世界大戦の始まりとともに徴兵される。
- 大戦後の19年に故郷に戻り、高級レザーグッズの店である「フランツィ」に職を得て皮革の扱い方を習得する。
- そして、22年にフィレンツェのパリネオ通りに自分の店を開き、23年に「GUCCI」の店名を掲げる。
- グッチが主に扱ったのはイギリスから輸入した鞄とその修理である。
- この鞄の修理によって壊れやすい箇所やそこをどう作れば良いかなどの旅行鞄の作り方を研究することができ、使いやすく丈夫な鞄を作る術を学ぶ事ができた。
- やがて、第二次世界大戦が始まるとイタリアでも皮革は統制品となり革が使えなくなってしまったが、代用品としてキャンバス地にコーティングを施して使う事になる。
- その配色が思わぬ人気を博したのは幸運であった事であろう。
- グッチがアメリカ・ニューヨークに支店を出したのは1953年の事で、父親のグッチオの反対を押し切る形で息子のアルド・グッチが開いたものだった。
- 同年夏グッチオ・グッチ死去。享年72歳。
彼には非常に多くに逸話が残されているが、有名なものに
イタリア訪問中のエリザベス2世が同店を訪問した時 女王付の侍従が彼に 「何か陛下にプレゼントを」と進言(というか催促)し、鞄を彼が女王に進呈した 女王一行が去った後報道陣がまだ居るにもかかわらず「金も払わん乞食はもう来るな」と発言をした、と言うものがある。
このようにエキセントリックな言動が目立つが職人からは信頼されてたし、彼も職人を愛していた。その証拠にグッチ社には他の高級ブランドとは異なり、材料費さえ払えば職人が妻や娘、恋人に鞄を作っても良い、と言う日があった。(現在は消滅している)これは、同社の製品が職人の家族にとって中々手の届きにくいものであった事からグッチオが自発的に考え付いた職人の家族へのサービスである。
[編集] 備考
- ブランドの元祖と呼ばれる。世界で初めて、品質保証のためにデザイナーの名前を商品に入れた。
- グッチ社は、既にグッチ家の手を離れている。
- その後、一族の一人はハウスオブフローレンス と言う 高級ブランドを設立
比較的繁盛している
しかし、本社金庫の鍵を創業家が今も保持し、その返還を求める裁判がいま大詰めとなっている。
[編集] 関連項目
[編集] 外部リンク
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