クワメ・エンクルマ
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クワメ・エンクルマ(Kwame Nkrumah,本名Francis Nwia Kofia Nkrumah 1909年9月21日 - 1972年4月27日)は政治家。ガーナ初代大統領。ガーナの独立運動を指揮し、アフリカの独立運動の父といわれる。日本語では姓がンクルマと表記される場合もある。エンクルマは語頭で「ン」を発音することができない英語での読み方。
イギリス領の植民地ゴールド・コーストにて、アカン族の鍛冶屋の家に生まれる。幼少より成績優秀で親族に借金してアメリカに留学し、パン・アフリカ主義に触れる。1935年、イタリアのエチオピア侵攻を聞いて激怒し、植民地制度の打倒を志す。イギリスに渡り、宗主国で優遇されるアフリカ出身のエリートの説得に奔走した。1945年にはパドモアと共に第五回パンアフリカ会議の書記を務める。第二次世界大戦後、帰国した彼は地元の自治組織の重要人物として迎えられるが、組織は宗主国イギリスを恐れ穏健的であった。1949年エンクルマは会議人民党を結成、即時独立の要求を掲げ、ストライキなど強硬な政策を打ち出した。穏健派によって逮捕されるが、1951年の選挙で会議人民党は第一党となり、釈放された。そして、1957年にゴールドコーストはトーゴランドと共にガーナとしてイギリスより独立、初代首相に就任した。1958年アフリカ各地の指導者を首都アクラに集め、パドモアと共に全アフリカ人民会議を開催し、ルムンバらに大きな影響を与えた。またアフリカを統一国家とするアフリカ合衆国の構想も謳われた。しかし、1960年1月チュニジアで開かれた第二回会議では、独立要求こそ謳われたが、アフリカ統一に関する議論はほとんど行なわれなかった。7月に共和制を採用し、エンクルマは初代大統領に就任した。1961年のコンゴ動乱で、穏健派と強硬派が対立したが、エチオピアの介入で和解、折衝案を盛り込んだアフリカ統一機構(OAU)が設立された。政治的統一は排除されたが、アフリカ諸国の相互援助は謳われた。エンクルマは植民地支配を受ける地域や独立間もない国家への支援を積極的に行ったが、結果的に豊かだったガーナの財政は傾いた。反発する大臣らを解任し独裁を敷くが、汚職が横行。1966年2月24日、北京とハノイへ外遊中に軍・警察のクーデターがあり失脚。以後、ギニアで亡命生活を送った。1972年4月27日、医療のため訪れたルーマニアのブカレストで病死。暗殺説もある。
[編集] 著作
- 『わが祖国への自伝』
- 『アフリカ解放の道』
- 『自由のための自由』