クレメンス・ウィルヘルム・ヤコブ・メッケル
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クレメンス・ウィルヘルム・ヤコブ・メッケル(Klemens Wilhelm Jacob Meckel 1842年3月28日 - 1906年7月5日)とは明治初期にお雇い外国人として兵制の近代化に貢献したドイツ軍人である。
陸軍の近代化を推し進めていた日本政府はプロイセン(プロシア)に兵学教官派遣を要請した。プロイセン側は参謀総長のモルトケの推薦によりプロイセン陸軍大学(de)の兵学教官のメッケル参謀少佐を派遣することした。彼は1885年(明治18年)に来日した。何故に参謀少佐と表記されるのかと言えば、プロイセン陸軍では参謀科は歩兵科、工兵科、砲兵科と同じく独立した兵科であるからである。
メッケル参謀少佐は兵学の権威であり、ドイツ側の好意は望外の喜びであった。日本陸軍はメッケル少佐を陸軍大学校教官に任じ、参謀科将校の養成を任せた。
メッケルの着任以前の日本ではフランス式の兵制を範としていたが、メッケルはそれを改め、プロイセン式の兵制を導入した。陸軍大学校での教育は徹底しており、彼が教鞭を取った3年間で卒業出来た者は僅か半数と云う厳しいものでった。その一方で兵学講義の聴講を生徒に限定せず、聴講したい者であれば自由に聴講する事を許したので、陸軍大学校長であった児玉源太郎を始め様々な階級の軍人が熱心に彼の講義を聴講した。
また、1886年に山県有朋、大山巌らによって始められた陸軍改革でも、メッケルはご意見番として貢献した。1888年彼は当初の予定を上回る3ヵ年滞在した後ドイツに帰国した。
陸軍少将に昇進した後ベルリンにて急逝、享年64。生涯独身であった。
[編集] 逸話
『フランスに対抗するため逸材を派遣』 ─ 日本からの度重なる将校派遣要請にプロイセンが本腰を上げた理由は、フランスが派遣をしていたからだった。プロイセンの威信を賭けてモルトケが推薦したのは、メッケルであった。当の本人は、極東の無名の島国への赴任を、激しく忌避した。だが、ヒンデンブルクまでも担ぎ出した陸軍挙げての説得交渉に、「一年で帰任出来るならば」と、ついに折れた。日本からの要請は、「3年間の派遣」だったが、本人には伏せられていた。
大のモーゼルワイン好きで、在独日本人に、日本でモーゼルワインは入手できるか尋ね、横浜で入手できることを知って訪日を決意した。
陸軍大学教官当時彼は、関が原の戦いの東西両軍の陣形図を見せられ、日本の軍人から「どちらが勝ったと思われますか?」と質問された際、「この戦いは西軍の勝ちである」と答えたという。布陣図から見ると、東軍を包囲する様、鶴翼の陣に布陣した西軍が有利であると判断したメッケルの分析は正しいものであったが、東軍側が西軍諸大名に対して盛んに調略を行い、離反や裏切りを惹き起こした事実を聞くと、改めて戦争で勝利するには調略と情報収集・分析が必要であるか・・・と云う事を強く指導する様になったと云われている。
ドイツに帰国後も自らが育てた日本陸軍の成長に日頃から気を留め、日露戦争開戦時、満州軍参謀総長に任命された児玉源太郎にメッケル自身が立案した作戦計画を記した手紙や電報を送ったりしている。また欧米の識者が日本の敗北を疑わなかった時期に早くから日本軍の勝利を予想、「日本陸軍には私が育てた軍人、特に児玉将軍が居る限りロシアに敗れる事は無い。児玉将軍は必ず満州からロシアを駆逐するであろう」と述べたと伝えられている。
[編集] 文献
- Kerst, Georg: Jacob Meckel: sein Leben, sein Wirken in Deutschland und Japan. Göttingen:Musterschmidt, 1970.
- 上法 快男編: 『陸軍大学校』、芙蓉書房、1988年
- 三根 生久大:『陸軍参謀:エリート教育の功罪』、文藝春秋、ISBN 4-16-342510-1、1988
- 黒野 耐: 『参謀本部と陸軍大学校』、講談社、ISBN 4-06-149707-3、2004
- 司馬 遼太郎: 『坂の上の雲』、文藝春秋社