クリスチャン10世 (デンマーク王)
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クリスチャン10世(Christian Carl Frederik Albert Alexander Vilhelm, 1870年9月26日 - 1947年4月20日) は、デンマーク(1912年 - 1947年)及びアイスランド(1918年 - 1944年)の王。
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[編集] 来歴
コペンハーゲン近くのシャルロッテンボー城で生まれる。
1898年にアレクサンドレーヌ・フォン・メクレンブルク=シュヴェーリンと結婚。2人の子供をもうけた。
民主主義の成長期にあって、王家の威厳と権力の重要性を強調する権威主義者・統治者的傾向があったために、クリスチャン10世は必ずしも大衆の人気を得ていたわけではなかったようである。しかしながら、2つの世界大戦にわたる治世と、デンマークの民族主義およびナチス・ドイツ支配へのレジスタンスの英雄的象徴として果たした役割により、現代のデンマーク君主の中でも最も敬愛される国王の一人となった。
1947年に崩御。従来のデンマーク王族と同様にロスキレ大聖堂に埋葬された。
クリスチャン10世の身長は199cmで、これは身長が計られた歴代の王の中では最も背が高い。
[編集] 1920年のイースター危機
詳細は 1920年のイースター危機(デンマーク)
1920年の4月、クリスチャンは「イースターの危機」を煽動した。もしかしたら、20世紀のデンマークの君主制の進展において最も欺瞞的出来事かも知れない。すぐに王よ内閣の間で、シュレスヴィヒのデンマーク再統一にたいしての内紛が起こった。この地は旧デンマーク王領で、第2次シュレスヴィヒ戦争でプロイセン王国に奪われたのである。 デンマーク人の王室に対する批判は第一次世界大戦の終わりに貫徹された。その時、ドイツ帝国の敗北は論争の解決を可能にした。ベルサイユ条約の規定のよればシュレスヴィヒは2地区(1つは今のデンマークの南ユトランド州でありもう1つは今のドイツのシュレスヴィヒ=ホルシュタイン州)で住民投票で帰属を決定することになっていた。 南シュレスヴィヒのために住民投票は計画されておらず、そこはドイツ系の住民が支配しており、戦後もドイツの州の一部のままであった。
北シュレスヴィヒでは75%がデンマークとの再統一に投票し、ドイツ残留は25%であった。中シュレスヴィヒでは状況が一転し、80%がドイツ残留に投票し、デンマークへ再統合は20%であった。この投票の結果を受けて、カール=テオドール・ツァーレ首相は北シュレスヴィヒの再統合を決定し、実現した。中シュレスヴィヒはドイツの施政下のままだったが。
多くのデンマークの民族主義者が、投票の結果を考えなしに、中シュレスヴィヒもデンマークに回帰されるべきだと感じており、総じてドイツを未来永劫弱体化させたい欲求によって突き動かされていた。クリスチャンはこれらの情緒に賛同し、首相に中シュレスヴィヒも再統一のプロセスに含むよう命令した。 1901年の先の危機以来、デンマークは立憲君主制であったので、首相は従う義務はないと感じていた。彼は、王との加熱したやり取りの数日後、命令を無視し、政策を実行した。
後にクリスチャンは合法的政府の残りを罷免し、その代わりに事実上の保守的な注意深い内閣を置いた。罷免はデモとほとんど革命のような雰囲気をデンマークに引き起こしたし、しばらくの間に君主制の将来はきわめて疑わしいように見えた。この光の部分においても、王と社会民主主義者との間の交渉は公開された。デンマークの王冠の廃止可能性に面して、クリスチャンは身を引き、彼の内閣を罷免し、その年の終わりに選挙が行われるまで妥協的な内閣を取り付けるることになった。
これは議会の全面的な支持なしのデンマークの君主の政治的行動の最後だとされ、クリスチャンは劇的に減じられた結果の象徴的な国家元首としての役割を受け入れた。
[編集] 第2次世界大戦
ナチスによる国土占領の間に亡命したノルウェーとオランダの王たちとは対照的に、クリスチャン10世はデンマーク占領の間も首都にとどまり、デンマークの人々にとっての間に見える国民の大義の象徴であり続けた。 彼の公式の演説はしばしば、政府の占領軍との公式の協力政策の号令より小さくなったが、これは彼が「精神的抵抗」の人に見えなくさせた。年齢と不安定な状況にも拘わらず、彼は毎日馬上の人となり町を往来した。馬丁の随行はなく、衛兵一人がついただけであった。1942年に落馬した後は、彼の残りの治世は病弱にの境をさまよった。
[編集] 逸話
1980年代のはじめに「インターナショナル・ヘラルド・トリビューン」が、ダビデの星のついた服を着る、馬上のクリスチャン10世の写真を戦時化で印象的な写真としてフルページの広告に取り上げた。 この図は、王がユダヤ人を援けるサインと、占領中にナチスの迫害に苦しむユダヤ人との連帯のシンボルであったこと指摘する著名な話の反響である(この話はレオン・ユリスの1958年のイスラエルの建国について書かれた小説「エクソダス」に部分的に伝えられ、よく知られることになった)。だが、デンマークではユダヤ人は「ダビデの星」をつけることを強制されなかったので、このサポートの出所は怪しいものとなっている。
もう一つのよく知られた話しでは、真実と一般的に受け入れられているが、クリスチャンがクリスチャンスボー城にナチスの旗が翻ることに抵抗した話が明らかになっている。この城は占領中は王室の居住地となっていた。その話にによれば、王は年配のナチスの将軍を呼び、彼に旗の撤去を命じた。将軍がそれを拒むと王は「デンマークの兵が一人で、旗を撤去しに行くでしょう」と宣言した。将軍がそのような兵は撃つといったら、王は応えて曰く「それはできますまい。そのデンマーク兵は私だから」。将軍はただちに旗の撤去の命令を出した。
1942年にアドルフ・ヒトラーがクリスチャンの72歳の誕生日を祝して長い電報を打った。クリスチャンの返事はたった「どうもありがとう。国王クリスチャン(Meinen besten Dank. Chr. Rex)」だけであった。これは(わざとにちがいないが)ヒトラーに対して大いに非礼であった。ヒトラーはすぐに在コペンハーゲンの大使を召還して在ドイツのデンマークの大使を追放した。ドイツの圧力はまたウィルヘルム・ブールが率いる政府を罷免して一層親独的なエリク・スカンウェニウスにもとでの指揮を代わりに置くことであった。
デンマーク人のとってのドイツ占領に対しての愛国主義と無言の抵抗の表明の常套手段は国旗と王の紋章を戴いた四角のボタンのついた服を着ることである。このシンボルは王立市場(Kongemærket)が取り入れている。
- アイスランド王
- 1918年 - 1944年
-
- 先代:
- フレゼリク8世
- 次代:
- (アイスランド独立)