キリル・ラクスマン
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
キリル・グスタヴォヴィッチ・ラクスマン(Kirill Gustavovich Laksman、または、エリク・ラクスマン、Erik Laksmannとも。1737年 - 1796年)は、フィンランド出身の博物学者。ドイツ系。
ロシア帝国サンクトペテルブルク科学アカデミー会員であり、当時、ロシアに漂流した大黒屋光太夫の帰国に奔走した。
1737年当時スウェーデン領だったフィンランドのサヴォンリンナに生まれる。幼少期から青年期まで貧乏な生活に苦しむが、ルター派の牧師となり、以後、苦学力行の末、ロシアに渡り、博物学者として名を成し、帝国サンクトペテルブルク科学アカデミー会員となり、女帝エカテリーナ2世や政府高官の知遇を得るまでに至った。
エカテリーナ・イワノヴナ夫人との間にグスタフ、アダム、三男(夭折)、アファーナシィー、マルチンの五男を儲け、イルクーツク郊外にガラス工場を経営していた。
1790年(寛政元年)53歳の時、イルクーツクで大黒屋光太夫に出会う。ラクスマンは、光太夫の境遇に同情すると同時に、帰国が適うように最大級の尽力を惜しまなかった。また、博物学者としてラクスマンは、光太夫達に日本の情報を収集することにも力を注いだ。ラクスマンは、若干、狷介なところがあったが、真摯で誠実な人物であり、光太夫一行は、次第にラクスマン一家と家族的な付き合いをするようになっていった。しかし、帰国を願う嘆願書は、あくまで光太夫達日本人をロシアに帰化させることを方針としていたイルクーツク総督府によって握りつぶされていた。1791年(寛政3年)ラクスマンは、光太夫とともに直接、女帝エカチェリーナ2世に帰国を直訴すべく、1月15日帝都サンクトペテルブルクに向け出発する。ラクスマンと光太夫は2月19日にペテルブルクに到着する。しかし、長旅がたたり、ラクスマンは腸チフスにかかり、病臥の人となる。光太夫はラクスマンの枕頭にあって献身的に介護した。こうした手厚い介護もあって、三ヶ月後ラクスマンは回復した。この間、女帝は、ツァールスコエ・セローに行幸していたため、女帝を追ってラクスマン、光太夫も5月8日、ツァールスコエ・セローに赴いた。5月28日光太夫は女帝の謁見を賜り、帰国の許可を嘆願することに成功した。エカテリーナ2世は、外務参事院議長(外務大臣)アレクサンドル・ベズボロドコ公爵に漂流民送還を指示し、9月29日光太夫ら漂流民送還の勅令が出された。1792年(寛政4年)ラクスマンと光太夫ら漂流民はオホーツクに到着し、ラクスマンの次男、アダムが遣日使節となる。8月21日ラクスマンと光太夫は決別の時を迎える。光太夫はラクスマンの足下にひざまずき、これまでの恩義に深い謝意を示した。
アダムの帰国後、女帝から功労を称えられ、日本刀をあしらった家紋を下賜される。その後、ラクスマンは、自ら日本に赴こうとするが、そのためにシベリアを旅行中の1796年1月客死した。享年59。