ガブリエル・バティストゥータ
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ガブリエル・オマール・バティストゥータ(Gabriel Omar Batistuta, 1969年2月1日 - )は、アルゼンチン・サンタフェ出身のサッカー選手。ポジションはフォワード。元アルゼンチン代表。
ニックネームは獅子王、バティゴール 長くイタリア・セリエAで活躍し、セリエAの外国人最多通算得点記録を保持またアルゼンチン代表歴代得点記録保持者でもある。1998年に日本代表が初めて出場したフランスW杯において、日本が初戦で対戦したアルゼンチン代表の当時のエースで、決勝点を決めて日本のワールドカップ初失点と初の敗北を演出したことや、日本人として初めてセリエAで優勝を経験した中田英寿とチームメイトであったことなどから、日本でもよく知られた選手である。
身長185cm、体重73kg。家族は妻と4男。
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[編集] 愛称
よく使われる愛称はBati(バティ)。その他にも荒ぶるその容姿からRe leone(レ・レオーネ = 獅子王)とも言われる。少年期には太り気味だったことからel gordo(エル・ゴルド = でぶ)と言われたこともある。
[編集] プレイスタイル
1990年代における世界最高のフォワードの一人。 爆発的なシュート力とエリア内での相手から消える巧みなポジショニングでゴールを量産する。 セリエA外国人通産最多ゴール数を誇り、しかもそのほとんどをそこまで強豪ではないヴィオラで成し遂げた事からマルコ・ファンバステンより評価する者も多い。
その強烈過ぎるシュートと大柄な体格から力強さが印象に強く残るが、パワーだけのプレイヤーではなくヘディングも上手く、パスやフリーキックなどのテクニックも優れたものを持つ、ループシュートでのゴールも得意とする。
[編集] フィレンツェの英雄
1991年、イタリア・フィレンツェの人気クラブ フィオレンティーナに移籍したバティストゥータは、その年のシーズン開幕当初こそ出場機会に恵まれなかったが、低迷するチームを立て直すべく途中就任したルイジ・ラディーチェ監督によりレギュラーに抜擢されると得点を量産、移籍初年度にクラブでの確固たる地位を築く。
1992-1993シーズンにフィオレンティーナは思うような成績を上げられずセリエB(2部リーグ)に降格してしまうが、バティストゥータはフィオレンティーナに留まり翌年の再昇格へ大きな役割を果たす(バティストゥータのような世界的なプレイヤーが2部リーグでプレイすることは極めて珍しい)。その後1994-1995シーズンにはセリエA得点王、1995-1996シーズンにはチームのコッパ・イタリア(イタリアプロサッカーリーグのカップ戦)優勝に貢献、フィオレンティーナへの献身がファンの心をすっかり掴む。最終的には合計9シーズンをフィオレンティーナで過ごし269試合出場・167ゴールと言う結果を残した彼はフィレンツェの英雄と称えられ、フィオレンティーナのファンはホームスタジアムの前に銅像を建てる。
2000年にASローマへ移籍。フィオレンティーナのファンは悲しみ、また憤りのあまり彼の銅像を破壊してしまった。この移籍はバティストゥータ自身がフィオレンティーナでは成し得なかったスクデット(セリエA優勝)をどうしても獲得したかったことと、多額の移籍金(約40億円、当時セリエA史上2番目の高額)によりクラブが断りきれなかったことが理由であり、彼自身、フィオレンティーナへの愛は不変であることを公言している。
ローマへの移籍初年度にオリンピコ(ローマのホームスタジアム)でフィオレンティーナと対戦した際には同点で迎えた終了間際に彼らしい豪快なミドルシュートで決勝点となる劇的なゴールを奪ったが喜びの感情を表すことはなく、チームメイトに祝福される輪の中で見せた俯いたままの哀しげな表情は彼のフィオレンティーナへの愛着を表すシーンとして、そしてスクデットを獲得したチームに数々のゴールによって最大限に貢献した彼の献身を象徴する試合として、その年のハイライトシーンとなった。 後のフィオレンティーナとの対戦では彼本来の実力を発揮する場面は少なかった。また、キャリアの最後はフィオレンティーナでプレイしたいと述べるなど、フィオレンティーナへの変わらぬ愛情を示している。
2005年3月13日現役引退を表明。静かにそのキャリアの幕を閉じたが、引退声明文の中で「今後も違う形でサッカーに関わっていく」と述べられており、今後は彼のサッカー界におけるピッチ上以外での活躍が期待される。
[編集] 略歴
- 2月1日 アルゼンチンのサンタフェに生まれる。
- このころ(9歳)はサッカーよりバスケットボールに興味があったが、地元開催のW杯アルゼンチン大会で、当時のアルゼンチン代表のエース・マリオ・ケンペスのプレイを見たことでサッカーへの興味を膨らませる。
- 17歳にしてようやくバスケットボールからサッカー選手へと本格的に転向、地元のクラブ レコンキスタ・サンタフェと契約。ちなみにこの頃までは将来は医者を志していた。
- ニューウェルス・オールドボーイズへ移籍。
- 1987-1988シーズン、ニューウェルス・オールドボーイズでリベルタドーレス杯優勝。
- アルゼンチンの名門リーベルプレートに移籍。しかしこのころのバティストゥータは特別優れた選手ではなく才能は伸び悩んでいた。
- 1989-1990シーズン、リーベルプレートでアルゼンチン選手権優勝。
- シーズン終了後に、同じブエノスアイレスに本拠を持つ強豪でありリーベルプレート最大のライバル、ボカ・ジュニオルズに移籍。ストライカーとして頭角をあらわす。
- 1990-1991シーズン、ボカ・ジュニオルズで19試合で11得点を叩き出し、アルゼンチン国内で一躍スターになる。
- 6月27日 ブラジル・コリチーバで行われた対ブラジル戦でアルゼンチン代表デビューを飾る。
- コパ・アメリカ チリ大会。6ゴールを挙げアルゼンチン代表を優勝へ導く。また、個人タイトルとして得点王も獲得。一躍世界的なプレイヤーとしてブレイクを果たす。
- 夏 イタリアのフィオレンティーナへ移籍。シーズン開幕当初、フィオレンティーナではサブプレイヤーとしての扱いだったが、[[ラザロニ監督の辞任に伴い就任したラディーチェ監督に見出されレギュラーの地位を手に入れる。
- 1991-1992シーズン、セリエAでの1シーズン目を27試合出場13ゴールと言う好成績で終了。
- 1992-1993シーズン、フィオレンティーナは低迷、セリエB降格となる。それに伴いバティストゥータも移籍が取りざたされたがチームに残留。
- コパ・アメリカ エクアドル大会。決勝戦での2ゴールなど、アルゼンチンの大会2連覇に貢献する。
- 1993-1994シーズン。フィオレンティーナの1シーズンでのセリエA復帰に貢献。
- W杯アメリカ大会。ギリシャ戦でハットトリックなどの活躍で大会4ゴール(チーム内得点王)。チームは強豪アルゼンチンとしては不本意なベスト16の成績。
- 11月27日 対サンプドリア戦。セリエAに復帰したフィオレンティーナで1994-1995シーズン開幕11試合連続ゴールのセリエA新記録を達成(それまでの記録はエンツォ・パスクッティの開幕10試合連続ゴール)。
- 1994-1995シーズン。マニュエル・ルイ・コスタとのコンビが冴え渡り、26得点を挙げセリエA得点王となる(アルゼンチン人としてはディエゴ・マラドーナ以来2人目)。
- コパ・アメリカ ウルグアイ大会。チームは優勝を逃すがバティストゥータ自身は得点王となる。
- 1995-1996シーズン。バティストゥータとフィオレンティーナは好調を維持。リーグを4位で終える。また、コッパ・イタリア優勝を達成する。
- W杯フランス大会の南米予選で当初バティストゥータはダニエル・パサレラ監督に出場機会をあまり与えられていなかったが、最終的には実力を認められレギュラーとして代表に復帰する。
- W杯フランス大会。初戦はW杯初出場である日本戦。彼はここで1点を決め勝利に貢献するとともに、日本のW杯初失点で日本人の記憶にも深く名を残す。また、ジャマイカ戦ではW杯記録となる(1994年大会と続いての)2大会連続のハットトリックを決める。大会を通じてバティストゥータは5ゴール(チーム内得点王)。チームはベスト8の成績。
- 1998-1999シーズン前半戦、17試合で17ゴールの大活躍。
- 1998-1999シーズン後半、チームの好調とともに得点王レースの首位を走っていたバティストゥータだがリーグ終盤に左足の怪我を負ってしまい、最終節に得点を挙げたウディネーゼのマルシオ・アモローゾに追い抜かれ2度目の得点王を逃す。
- 2000-2001シーズン、移籍1年目で20ゴールの活躍をし。ローマの1983年以来18年ぶりのセリエA優勝に貢献。バティストゥータ自身としては悲願であった初のリーグ優勝である。
- W杯韓国・日本大会 南米予選では、マルセロ・ビエルサ監督がバティストゥータとエルナン・クレスポを決して同時起用することがなく、2人のレギュラー争いが話題となる。
- W杯韓国・日本大会。アルゼンチン代表のエースとして参加するが、バティストゥータは1得点しか挙げられず、チームはグループリーグ敗退。バティストゥータはアルゼンチン代表からの引退を宣言。
- 1月 セリエAのインテルへ移籍。これは、それまでインテルのエースストライカーであり、バティストゥータにとっては因縁の相手でもあるエルナン・クレスポの怪我に伴うものである。
- 2002-2003シーズン終了後、12年間すごしたイタリアを去り、カタールリーグのアル・アラビへ移籍。
- 現役引退を表明
[編集] 所属クラブ
- 1986-1987 レコンキスタ・サンタフェ (ARG)
- 1987-1989 ニューウェールス・オールドボーイズ (ARG)
- 1989-1990 リーベルプレート (ARG)
- 1990-1991 ボカ・ジュニオルズ (ARG)
- 1991-2000 フィオレンティーナ (ITA)
- 2000-2002 ローマ (ITA)
- 2002-2003 ローマ (ITA) (1月まで) → (1月から) インテル (ITA)
- 2003-2004 アル・アラビ (QAT)
※ ARG=アルゼンチン, ITA=イタリア, QAT=カタール
[編集] 代表歴(国際大会)
- 1991年 コパ・アメリカ チリ大会 (チーム成績:優勝) (個人タイトル:得点王)
- 1993年 コパ・アメリカ エクアドル大会 (チーム成績:優勝)
- 1994年 W杯アメリカ大会 4試合出場4得点 (チーム成績:ベスト16)
- 1995年 コパ・アメリカ ウルグアイ大会 (個人タイトル:得点王)
- 1998年 W杯フランス大会 5試合出場5得点 (チーム成績:ベスト8)
- 2002年 W杯韓国・日本大会 3試合出場1得点 (チーム成績:グループリーグ敗退)
代表通算キャップ:78試合 得点:54得点
[編集] 語録
「そこにゴールがあるから蹴るんじゃない、俺が蹴るからゴールがあるんだ」 「打倒!朝鮮。日本。韓国。。。」
[編集] 外部リンク
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