カイサリア
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
カイサリアは紀元前1世紀に作られた古代都市の名前。その名は当時のローマの権力者アウグストゥス・カエサルの名にちなんでいる。 カイサリアとよばれた都市はいくつかあったが、ここではもっとも有名な1について述べる。
[編集] 海辺のカイサリア
海辺のカイサリア(ラテン語 Caesarea Maritima, ヘブライ語 Qisariyyah)はカイサリア・パレスティナとも呼ばれた都市で、ヘロデ大王が紀元前25年ごろからパレスティナのテルアビブの近くに建設した。もともと存在した「ストラトンの塔」(ラテン語:Turris Stratonis)という小要塞をもとに大増築し、都市とそれに付随する人工港湾まで建築した。紀元前13年には市民が入植し、パレスティナではもともと良港が少なかったため、カイサリアは重宝され、ユダヤ人やギリシャ人など多民族の混住地となった。ローマ帝国もカイサリアの海上交通の利便さに目をつけてここをユダヤ属州の首都とし、ローマ総督と軍隊の駐屯地とした。カイサリアは栄え、新約聖書の『使徒行伝』にも登場する。最初の異邦人キリスト教徒はこのカイサリアで誕生したのである。
フラウィウス・ヨセフスは著作『ユダヤ古代誌』および『ユダヤ戦記』で、カイサリアでユダヤ人虐殺が起きたことがユダヤ戦争の引き金となったと述べている。ローマ時代のカイサリアにはコロシアムやカエサルにささげられた神殿などがあったことが発掘によってわかっている。皇帝ヴェスパシアヌスはこの街を「Colonia Prima Flavia Augusta Caesarea」と名づけている。
130年代のバル・コクバの反乱をローマ軍が鎮圧し、エルサレムを破壊すると、カイサリアはパレスティナ第一の都市となり、初期のキリスト教の中心もエルサレムからカイサリアへ移った。4世紀の歴史家エウセビオスはこの街の大司教であり、オリゲネスもこの街に滞在して著作を書いている。
カイサリアは7世紀以降、ペルシャやイスラム教徒の侵攻によって破壊されたが、なんとか存続し、12世紀の十字軍の時代には、十字軍によって植民都市とされている。その後もイスラム教徒とキリスト教徒の攻防の地となったが、やがて放棄されて廃墟となった。
近くにはセドット・ヤム Sedot Yam、アラブ人のジスル・エッ・ザルカー Jisr ez Zarqa、オル・アキバ Or Aqibha などの都市がある。