オトマール・シェック
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オトマール・シェック(Othmar Schoeck, 1886年9月1日 - 1957年3月8日)は中央スイスのフィーアヴァルトシュテッター湖畔のブルンネンという村に生まれた作曲家。チューリッヒ音楽院卒業後、シュトゥットガルトに赴いたシェックはマックス・レーガーにに会いその勧めにしたがって、ライプツィッヒの王立音楽院で一九〇七から一九〇八年にかけて学んだ。[1]。 300曲以上の歌曲を書いたシェックはドイツ・リートの最後の作曲家としての業績をまず高く評価されている。 有名なアイヒェンドルフやレーナウなどの詩につけた歌曲集「エレジー」Op.36 (1921-22) や、レーナウやケラーの詩につけたノットゥルノ Op.47 (1933)などは傑作というだけでなく人気も高いが、ヘッセの詩につけた10の歌 Op.44 (1929)など、傑作は多い。 また歌劇も数多く作曲しており、初期の歌劇「エルウィンとエルミーレ」Op.25 (1916初演)をはじめ、「ヴィーナス」「マッシラ・ドニ」「ペンセシレア」などの傑作が書かれた。中でも「ペンセシレア」は傑作として名高く、今もヨーロッパの一般的な歌劇場のレパートリーとして生きている。重厚なワーグナーばりのハーモニーと見事な管弦楽法がマッチした傑作群である。 器楽作品でもブラームスなどのドイツ・ロマン派の系譜に繋がる傑作がいくつも残されている。特にバルトークもヴァイオリン協奏曲第1番を捧げた美人ヴァイオリニストのシュテフィ・ゲイヤーにシェックも恋して、彼女に捧げるためにヴァイオリン協奏曲を作曲しているが、これなど誠に美しい作品で、今も人気がある。また弦楽とホルンのために書かれた協奏曲なども傑作として、多くのホルン奏者が愛奏するところでもある。 他、2つの弦楽四重奏曲やソナタも重要であるが、変わったところではバス・クラリネットとピアノのためのソナタなどという作品もある。
父アルフレートは風景画家で、青年時代のシェックは、父親の跡を継ぐことを真剣に考え、チューリヒの美術学校に通ったこともあるそうで、スイスのイェックリンから出ている歌曲全集のジャケットが彼の絵で飾られている。
第一次世界大戦中はチューリヒに過ごし、ピアニストのマリー・ド・サンジェール(Mary de Senger)と恋愛関係にあった。パリでフランス六人組の音楽を知ってから、それまでの調体系を捨て、アルバン・ベルクの音列技法に好意を寄せたこともある。ナチスがドイツ語系の作曲家として彼を大いに持ち上げたことが、戦後になって彼の音楽家としての名声に影を落としたことは否めない。またそれだけでなく、彼の作風が戦後、時代遅れに聞こえてきたことも事実である。1930年代には、調性を捨てて表現主義的な作風に向かった彼であったが、ナチが持ち上げる頃には調性を再び自らの作曲の中心に据えるようになっていた。そして、戦後はそれが次第に強まっていったのである。
彼の交友関係は華麗であるというほどではなかったが、その中にヘッセやアンドレーエがいる。ヘッセは終生シェックの音楽的天才に驚嘆しつつ、彼が自分の詩につける音楽(歌曲)を高く評価していた。ベルン交響楽団の指揮者であったフリッツ・ブルンとヘルマン・ヘッセとの3人でよく旅行にも出ている。そうした時のシェックの様子を、文豪は感動をもって書き綴っている。 ピアノの大変上手で、自身の歌曲の伴奏をチューリッヒ歌劇場の名歌手たちをソリストに録音を残しているが、その中には名テノールのヘフリガーなどの名前もある。 が、熱心にシェックの再評価のために力を尽くした歌手はディートリヒ・フィッシャー=ディースカウやヘルムート・ヘルと白井光子夫妻によるところは大きい。