エルンスト・ルビッチ
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エルンスト・ルビッチ(Ernst Lubitsch, 1892年1月28日 - 1947年11月30日)は、ドイツ出身の映画監督。
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ベルリン生まれ。洋服屋を営む両親に育てられる。16歳の時に高校を中退し、人気喜劇俳優ヴィクトル・アルノルドに弟子入りする。出演のほか、小道具係や照明の助手などもつとめる。1911年、マックス・ラインハルト率いる劇団に入団。翌年、ラインハルト監督の映画に出演。
1914年、短編喜劇で、監督デビュー。1918年、初の長編映画『呪の目』を発表。1919年、ポーラ・ネグリ主演の『パッション』等の史劇大作も監督。ドイツで活躍の後、ハリウッド・スターだったメアリー・ピックフォードに認められ、渡米。1923年、ピックフォードを主演に迎え、映画『ロジタ』を監督。その後ワーナー・ブラザーズ社と契約し、1924年『結婚哲学』や1925年『当世女大学』などの作品を撮る。この頃から、人物の位置や視線などの映像表現によって人物の感情を描く、独自の「ルビッチ・タッチ」を確立していく。
1927年にはMGM社に移り、翌年、パラマウント社に移籍。モーリス・シュヴァリエを主演に迎えたトーキー第1作の、1929年『ラヴ・パレード』や1931年『陽気な中尉さん』を監督。1932年の『極楽特急』や1933年の『生活の設計』など、工夫を凝らしたミュージカル映画や、巧みな物語運びと洗練された台詞の秀逸なコメディを手掛ける。1937年、マレーネ・ディートリッヒ主演の『天使』を、1938年、ゲーリー・クーパー主演のコメディ『青髭八人目の妻』を監督する。
1939年、MGM社で、グレタ・ガルボ主演の『ニノチカ』を製作。独立した1941年には『淑女超特急』を手掛ける。1942年、ナチス占領下のポーランドからの脱出を計画する芸人たちのを姿を、深刻にではなく、あくまでルビッチ的に描いた『生きるべきか死ぬべきか』を発表。遺作は、1946年のシャルル・ボワイエのコメディ『小間使』。心臓発作で死亡。 その映画は、ビリー・ワイルダー・小津安二郎らの監督たちの作風に影響を与えた。