イザヤ書
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イザヤ書(―しょ)は、プロテスタント教会の一般的な配列では旧約聖書の23番目の書であり、三大預言書(イザヤ書、エレミヤ書、エゼキエル書)の一つ。伝承では紀元前8世紀の預言者イザヤに帰される。
[編集] 構成
イザヤ書は全部で66章からなる。これは大きく前半と後半に分けることができ、前半の39章を第一イザヤ書と呼ぶ。現代の聖書学ではこの第一イザヤ書のみが紀元前8世紀の預言者イザヤ自身によって語られたと考えられている(ただし、1-39章においても多くの箇所が8世紀のイザヤ自身によるものではないと考えられる)。
後半はさらに二つに分けられるが、著者の名前は知られていない。1892年の注解書の中でベルンハルト・ドゥーム(Bernhard Duhm)が、56-66章を第三の預言者に帰されると主張して以来、バビロン捕囚からの帰還の時期に活動したと考えられる預言者による第二イザヤ書(40~55章)とさらに後代の預言者による第三イザヤ書(56~66章)が区別されることが多い。
他のほとんどの預言書がそうであるように、預言者によって語られた言葉が弟子たちによってまず口承で受け継がれ、その後文書化されて以降も複雑な編集過程を経たと考えられており、それに伴い、構成も単純ではない。
[編集] 各部分の概要
- 第一イザヤ書
預言者イザヤが繰り返し「アモツの子」と呼ばれているため、教父アウグスティヌスはその著書『神の国』の中で、預言者アモスの子であるとした。アモスの活動後約10年ほどしてイザヤは召命されたと考えられる。ただし、アモス、ホセアが北王国で活動したと考えられるのに対し、8世紀の預言者イザヤは、南王国の首都エルサレムで活動した宮廷預言者であったと考えられる。そのため、アモスやホセアが主に出エジプトの伝承に拠っていたのに対し、イザヤにおいては、ダヴィデ王家とシオン(エルサレム)の選びの伝承が重視される。南王国ではほぼ同時代にミカ書によって知られる預言者ミカが活動したと考えられるが、ミカはエルサレムの徹底的な破壊をも預言した点が異なる。
また、イザヤがエルサレムで活動したということは、現実の政治権力への接近可能性という点でも重要であり、預言者イザヤは、ヒゼキヤ王の即位に際して役割を果たしたと推測される。
各章は、必ずしも年代順に編集されてはいないと考えられる。例えば、当然最初に置かれるべきだと思われる召命記事は、6章に置かれている。
1章には、アモス書にあるような祭儀批判が見られる。
2章では、人間の傲慢が非難の対象となるが、この神ではない人間の高ぶりは、イザヤの預言の重要な主題の一つである。
6章は召命記事であり、7-8章はシリア-エフライム戦争に関するものである。
13-14章は、バビロニアに関する預言であり、アッシリアの時代に生きた第一イザヤの預言と考えるのは不自然なので、後代に帰される。
24-27章は黙示的であり、バビロン捕囚以後に帰されることが多い。
34-35章は、第二イザヤ書に類似していることが一般に認められている。
36-38章では、アッシリアの王センナケリブによる侵略が描かれる。紀元前701年にエルサレムは辛うじて陥落を免れたが、これがシオンの選びの確証と捉えられたと考えられる。同一の事柄に関する列王記下18-20章の記述は、ヒゼキヤが貢納を課せられたことに触れているが、このイザヤ書では言及されていない。
- 第二イザヤ書
45章15節には、「隠れた神」(ラテン語訳ではDeus absconditus)への言及が見られるが、第二イザヤ書で最も良く知られているのは、「主の僕(しもべ)」に関する箇所である。第二イザヤには「僕(しもべ)の歌」と呼ばれる箇所があることが、上述のベルンハルト・ドゥームによって指摘され、一般に受け入れられている。「僕(しもべ)」が誰なのかという問題については論争がある。この歌は、苦難に意味を見出した極めて重要な箇所であり、「僕(しもべ)」の代理贖罪的な死は、イエス・キリストを預言したものとしてキリスト教において重視された。