アレクサンドル・ルツコイ
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アレクサンドル・ウラージミロヴィッチ・ルツコイ(Александр Владимирович Руцкой, Aleksandr Vladimirovich Rutskoi,1947年9月16日 - )は、ソビエト連邦及びロシアの軍人、政治家。ロシア副大統領。空軍では少将まで累進している。のちに陸軍大将の称号を得る。
1947年9月16日ソビエト連邦ロシア連邦共和国のクルスク州に生まれる。バルナウル高等軍事パイロット学校で8年間学び卒業後、1965年から軍務に就く。さらにガガーリン名称空軍大学、ソ連参謀本部大学で学ぶ。1970年にソ連共産党に入党。
1979年からのアフガニスタン紛争に従軍。空軍大佐となる。1990年新たにロシア共産党が創設された際、中央委員に選出される。1991年人民代議員に選出。議会では、傷痍軍人や退役軍人と家族の社会政策に尽力した。改革派の院内会派「民主主義をめざす共産主義者」を結成し、指導者としてレオニード・ブレジネフの流れを汲む保守派と一線を画し、のちに共産党を離党する。
ロシアに大統領制導入に伴いボリス・エリツィンは副大統領候補にアフガニスタン戦争の英雄で軍人票を見込めることと、共産党を離党して改革派の立場を鮮明にしたことを理由にルツコイを選ぶ。1991年6月12日の選挙でロシア副大統領に当選する。ソ連8月クーデターでは、エリツィンらとロシア最高会議ビル(ホワイトハウス)の防衛に当たり、クリミア半島フォロスに飛び、ミハイル・ゴルバチョフ大統領を救出することに成功した。
ソ連崩壊後、経済改革をめぐり、エリツィン及びエリツィン側近の急進改革派と一線を画すようになり、1992年6月ルツコイの自由ロシア人民党は、ロシア民主党、「刷新」など穏健改革派と政治ブロック「市民同盟」を結成した。エリツィンは、ルツコイに農業担当を命じ次第に両者の懸隔は拡大し、1993年春には最高会議議長のルスラン・ハズブラートフとともに反エリツィンの立場を鮮明にする。1993年9月21日に訪日を直前に控えたエリツィンは、人民代議員大会及び最高会議解散の大統領令を発布し、議会を中心とする反エリツィン陣営の除去に取りかかったが、ルツコイは、最高会議の緊急会議で大統領に就任した。10月3日、最高会議ビルに立てこもって抵抗した。しかし、8月クーデターの再現とはならず、ロシア政府軍の圧倒的な攻撃により、10月4日抵抗は失敗した(モスクワ騒乱事件)。ルツコイ、ハズブラートフは逮捕され、レフォルトヴォ刑務所に収容される。
1994年下院国家会議の恩赦決議で釈放される。4月愛国主義団体「大国」を創設し代表となる。1995年ロシア連邦議会下院国家会議選挙では、「大国」は敗北しルツコイ自身も落選したが、1996年10月クルスク州知事に当選した。1999年10月、プーチン政権の与党「統一」に参加する。クルスク州知事再選に意欲を燃やすが、2000年10月選挙管理委員会から立候補資格を取り消され、再選できなかった。
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