アルジェリア戦争
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アルジェリア戦争(アルジェリアせんそう)は、1954年から1962年にかけて行われたフランスの支配に対するアルジェリアの独立戦争。フランス本土と当時はフランス領(公式には植民地ではないとされる)であったアルジェリアの内戦であると同時に、アルジェリア地域内でフランス本国と同等の権利を与えられていたコロンと呼ばれるヨーロッパ系入植者と、ベルベル人やアラブ系住民などの先住民との民族紛争でもある。
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[編集] 概要
1830年以降、フランスはアルジェリアを支配下に置き、1848年に3つの直轄県(オラン県・アルジェ県・コンスタンチン県)を置いて内地、本国の一部としたほか、1881年に東隣チュニジアをオスマン帝国から確保、1912年に西隣モロッコを保護領として支配下に組み込むなど、北アフリカ支配の拠点としていた。
ヨーロッパ系コロン(ピエ・ノワール)と、同化によって市民権を付与されたユダヤ教徒や一部のムスリム以外の先住民は差別、抑圧されており、1945年の第二次世界大戦終結後、アジアなどから急激に広がった民族自決の流行の中で、反仏抵抗運動が高まっていた。1952年1月に起こったフランスによるチュニジア民族運動弾圧は、植民地支配に固執するフランス人の国際的評価を下げた。また、1954年のジュネーヴ協定によってインドシナ4国(南北ベトナム含む)が正式に独立に至ったことは、フランスの全植民地・海外領土に暮らす人々を力づけるものであった。
1954年にはアルジェリア民族解放戦線(FLN)が組織され、武装闘争が本格化した。これに対してフランスは兵力を増強、アルジェリアにおいて戦争となったが、1955年にはアルジェリア・チュニジア・モロッコでいずれも民族運動が盛り上がり、反仏暴動につながった。結果、翌1956年にはチュニジアとモロッコはフランス連合内で独立を達成したものの、フランス内地化が進み、コロンなどの問題を抱えるアルジェリアに関しては、対応をめぐってフランス政府が分裂した。戦争は、FLN支持者とみなされた現地住民や村落に対するフランス軍による虐殺や、FLNによるフランス人経営のカフェや映画館などを狙った市街地での爆弾テロにより泥沼化していった。フランス本国の世論もFLNの独立運動を支持する側とフランスの国益を優先させる側に分裂する。1958年、「フランスのアルジェリア」を支持する現地軍人やコロンたちのクーデター勃発とフランス本土侵攻の脅威によって第四共和政政府は有効な解決策を出せずに危機に追い込まれ、崩壊状態となった。
政府の出馬要請によりシャルル・ド・ゴールが首相に就任して第五共和政が開始された。ド・ゴールはアルジェリア戦争の戦費による赤字財政を危惧し、9月にアルジェリアの民族自決を支持した。1960年は後に「アフリカの年」と呼ばれるが、年頭からアフリカ植民地の独立を次々に承認し、その中でド・ゴールは7月に「アルジェリア平和計画」を発表した。これはアルジェリアで戦う軍人とコロンの反発を買い、11月にはアルジェリアでコロンらの反ド・ゴール暴動を招いた。しかし、1961年1月にフランス本土で行ったアルジェリア独立をめぐる国民投票では、75パーセントがアルジェリアの民族自決を、つまりはド・ゴールの植民地政策を支持した。
これに現地軍人やコロンは激しく抵抗し、OAS(秘密軍事組織)を結成してフランス軍やフランス官憲に対して反乱を開始した。彼らはアルジェリアはフランス固有の領土であると信じ、この戦いをヨーロッパ文明と野蛮との戦いと位置づけた。OASはアルジェリアやフランス本土で、フランス人政治家や警察官僚らを殺害するなどテロ活動を活発化させ、1961年9月にド・ゴールの暗殺を計画するが失敗した。このとき、OASにはフランス最強の空挺部隊出身者も参加しており、フランス国民は空挺部隊が本土を奇襲するのではと大変恐れたという。だが、暗殺計画の発覚でコロンとOASへの支持は失墜して、フランス本国でもアルジェリア独立の支持が高まった。
OASのフランス軍、FLN、およびアルジェリア人市民に対するテロが激化する中、ドゴールはFLNに和平交渉を呼びかけ、1962年3月のエヴィアン協定でアルジェリア独立が承認され、フランス軍とFLNの戦闘は停止する。4月のフランス本国で行われた国民投票では、大多数の国民が戦争の終結を望み90%以上がアルジェリア独立を支持した。一方、OASはますますテロを激化させ、FLNを襲撃するほか「アルジェリアをフランス統治時代以前の状態に戻してから返還する」としてフランスがアルジェリアに建設してきた近代的インフラをも破壊し始めた。FLNも報復テロを行い、アルジェリアに留まることがエヴィアン協定で認められていた一般人のコロンらはテロの応酬による無政府状態を恐れて次々とアルジェリアからフランスへの移住を開始した。OASにもさすがに敗北を認めるものが現れ、6月にはFLNと停戦に至ったが、もはやコロンの大半はアルジェリアを脱出しようとしていた。7月にアルジェリアで実施された投票では絶対多数で独立が採択され、アルジェリアの独立が決定する。初代大統領にはFLNの創設者であるベン・ベラが就任した。
FLNは以後アルジェリアを主導する政治勢力となったが、長期政権化して次第に国民の不満が高まるようになった。OASはこの戦争後もフランス本土でドゴール暗殺とクーデターを試みたが失敗し続け衰退した。アルジェリアに残ったフランス系住民はわずかにとどまり、フランス側に味方して戦った25万のアルジェリア人(アルキ、harki)に対してはFLNなどによる報復が行われ、多くが殺され多くがフランスへ移民として移住することとなった。
[編集] 関連項目
[編集] 外部リンク
- ド・ゴール伝(日本語)
- Algerian War Reading
- アルジェリア戦争の写真(フランス語)
- Algerian War of Independence
- Algerian National Liberation
- Biography of Ahmed Ben Bella
- Biography of Frantz Fanon
- Excerpts from The Wretched of the Earth by Frantz Fanon
- Pacification in Algeria: 1956–1958 by David Galula
[編集] メディア・アーカイブ
- Audiovisual National Institute's declassified Algeria War archives (hundreds of free video: news rushes, interviews, official speeches, retrospectives, etc.)
- Algerian War Retrospective
[編集] 参考文献
- Library of Congress Country Study of Algeria
- Modern Warfare: A French View of Counterinsurgency Roger Trinquier (1961)
- Leulliette, Pierre, St. Michael and the Dragon: Memoirs of a Paratrooper, Houghton Mifflin, 1964
- Rita Maran, Torture. The role of ideology in the French-Algerian war, New York: Prager Publishers 1989
- Jouhaud, Edmond. O Mon Pays Perdu: De Bou-Sfer a Tulle. Paris: Librarie Artheme Fayard, 1969.
- Cinq Colonnes à la une, Rétrospective Algérie, ORTF, June 9th 1963
- Cinq Colonnes à la une, Rushes Interview Pied-Noir, ORTF, July 1st 1962