アスカル・アカエフ
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アスカル・アカエビッチ・アカエフ(アカーエフとも、Askar Akayevich Akayev, 1944年11月10日 - )は、キルギス共和国の政治家で初代大統領。独立以来大統領の座にあったが、2005年3月24日現在は実効上の権力を失っている。
キルギス共和国(当時はソビエト連邦)ケミンスキー地方キジルバイラク生まれ。父親は、18世紀に活躍した有力部族長アタケ・ビーの血筋に当たる。母はカザフ人。
アカエフが政界に入るのは1990年以降のことである。それ以前のアカエフは技術者および教育者であり、政界とは縁がなかった。レニングラード精密光学機械大学を1967年に卒業し、数学、機械工学、計算機工学において学位を取得した。1981年にモスクワ理工大学より工学博士号を授与される。1977年以降はフルンゼ(現ビシュケク)の理工科大学で教鞭をとった。後に大統領に就任してからは、当時の学生や同僚の中から閣僚を指名している。1987年にキルギス科学アカデミー会員となり、1989年から1990年同総裁に就任した。
1990年10月にオシュ州でおきた民族紛争に対する対応で失敗したアブサマト・マサリエフ・キルギス共産党第一書記を退け、共和国最高会議によりキルギス大統領に選出された。翌1991年に再選され、また1995年、2000年にも再選された。1995年以降は選挙に不正を行ったとの指摘がなされている。
就任当初は、アカエフは改革派政治家として知られ、1991年8月の保守派のクーデターに反対した。また、独立後は、国内における言論の自由を保障し政権反対派の活動に対しても近隣の中央アジアの国々と比較して寛容であった。しかし次第に土地や利権の占有に始まる強権的政治手法を取るようになり、国内外から非難された。
2005年での任期切れを迎えても後継者に自身の子をたて権力の世襲化を狙うのではないかとも言われていたが、2005年3月の議会選挙での選挙不正疑惑をきっかけに南部で野党勢力による反政府運動が激化し、首都ビシュケクへも拡大した。3月24日には野党勢力が大統領府を占拠。3月25日、ロシアのインタファクス通信はアカエフがカザフスタンへ逃亡したと報道した。その後、アカエフは、カザフスタンを出国し、ロシアに入国した。アカエフは、反政府運動を「憲法違反のクーデター」であるとして、しばらく退陣を拒否していた。しかし、4月2日暫定政権側のテケバエフ国会議長と会談し、口頭で大統領辞任に同意を与えた。4月3日アカエフは正式に大統領を辞任するとの声明を発表した。
前任: - |
キルギスタンの大統領 初代 |
後任: イシェンバイ・カドイルベコフ(代行) |
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