アウグスト・ヴィルヘルム・シュレーゲル
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アウグスト・ヴィルヘルム・シュレーゲル(August Wilhelm von Schlegel, 1767年9月8日 - 1845年5月12日)は、ドイツの文学者・翻訳家・文献学者・評論家。多言語に通じており、各国語の文学作品の翻訳を行う。(特にシェイクスピアの翻訳は、有名)またインド思想を研究し、ヨーロッパへの東洋思想の移入に功績があった。弟のフリードリヒ・シュレーゲルはロマン主義の文学の中心的人物としてで知られ、2人でシュレーゲル兄弟と呼ばれる。
ハノーファーの生まれ。ルター派の牧師の子として生まれた。ゲッティンゲン大学で学ぶ。弟のフリードリヒ・シュレーゲルと共に、ロマン主義の哲学者として知られ雑誌「アテネーウム」の編集長を務めた。大学卒業後、アムステルダムの銀行家の息子の家庭教師として生活していたが、活動の場を求めてイェナへ。当地は、シラーやフィヒテなど当時のドイツ精神を代表する人物が教鞭を取っていたところであった。シュレーゲルは、1796年にカロリーネと結婚。1798年にはイェナ大学員外教授に就任。ルートヴィヒ・ティークの娘、ドローテアとヴォルフ・ハインリヒ・グラーフ・フォン・バウディシンらの監督の下、シェイクスピアの翻訳にあたる。この翻訳は、とても詩的な翻訳であった。シラーが主宰していた文芸雑誌「ムーゼンアルマナハ」に寄稿したり、弟と「アテネーウム」を主宰したり、詩集を刊行したりと多彩な文芸活動を展開。ドイツロマン主義の始祖として活躍した。また、ドイツのシェイクスピアと呼ばれたドイツの劇作家・アウグスト・コッツェブとの論争があった。
1802年には文学活動の場を求めて、ベルリンへ。当地で美学(芸術)と文学について講義を行った。その後古代ギリシアの詩人エウリピデスのスタイルを模した「イオン」を出版、劇的な詩のあり方を示す。さらに、スペインの劇作家、カルデロンの翻訳を行なったほか、イタリアやスペインやポルトガル語の叙情詩の翻訳 「イタリア、スペイン、ポルトガルの詩の花束」(1804-1809年)を出版した。さらに1807年に彼は、フランス文学論にも言及。ロマン主義の立場からフランス古典主義批判を行った。この頃に「劇的芸術と文学 を出版。しかし、私生活では1804年にカロリーネと離婚。(ちなみにその後カロリーネはドイツの哲学者・フリードリヒ・シェリングと結婚している)その後の同時代のフランスの作家ジェルメーヌ・ド・スタール(スタール夫人)と共に、各地へ旅行する。
1813年スウェーデン国王の秘書として活躍。1818年にはボン大学教授として文学と美学を講義。バガヴァッド・ギーターのラテン語訳などインド思想の移入に多大に貢献した。これらは、ドイツにおけるサンスクリット研究の流れを作っていくことになる。スタール夫人の没後、パウルスの娘と再婚している。その後も、ボンで教鞭をとり、教え子に詩人のハイネなどがいる。1845年に当地で没。 一般的には、文学作品としての評価は高くないが、文芸評論、ヨーロッパ各国語やサンスクリットなどの東洋思想の移入などの翻訳などで後世に与えた影響は大きい。