あきれたぼういず
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あきれたぼういず(1937年(昭和12年) -1951年(昭和26年))は、川田義雄(後の川田晴久)、坊屋三郎、芝利英、益田喜頓、および山茶花究による日本のヴォードビル、ボーイズグループ。
目次 |
[編集] メンバー
- 第1期
- 第2期
[編集] 来歴
- 1935年11月、吉本興業が浅草六区に浅草花月劇場をオープン。レビュー「吉本ショウ」が始まり、川田義雄は町田金嶺とともにその中心メンバーとして活躍。1937年5月に若手を中心に音楽コントグループ「あきれたぼういず」を結成する。歌に演奏に堪能なハイカラな芸風が好評を呼び、同年8月に川田義雄、坊屋三郎と芝利英の兄弟、益田喜頓の4人で「第1次あきれたぼういず」を結成。
- 1938年、ビクターの上山敬三があきれたぼういずの演技に度肝を抜かれ、レコードデビューを持ちかける。同年8月「アキレタ・ダイナ」「あきれた演芸会」が発売される予定だったが、テスト盤が内務省の検閲に引っ掛かり発売禁止となる。台本を書き直し新たに吹き込んだ「四人の突撃兵」「スクラム組んで」「空晴れて」をSP盤として同年12月に発売。爆発的に売れて全国に人気が高まる。日劇を3回り半も客が立ち並び、後楽園球場のプロ野球戦の余興では、広い場内がわきかえるほどの人気を集めた。
- 1938年春、人気絶頂のなか新興キネマ演芸部が吉本興業の芸人を大量に引き抜いたため、川田を除いた3人が新興に移り、第1次あきれたぼういずは消滅する。一人残った川田は弟の岡村龍雄らとともに「川田義雄とミルクブラザーズ」を結成。「地球の上に朝が来る」が大ヒットとなる。
- 一方、新興に移った坊屋、芝、益田は山茶花究を加え、「第2次あきれたぼういず」を結成。同時にレコード会社もテイチクに移籍し、「あきれた石松」「ダイナ競走曲」などのヒット曲を生み出す。1941年12月、太平洋戦争に突入後、ジャズは敵性音楽として禁止となり、音楽とセリフの面で厳しい制限をかけられる。グループ名も「新興快速舞隊」に変更する。
- 芝利英の応召(のち戦死)、益田が一時外に出るなどメンバーが入れ替わるながら1943年まで活動を続けた。同時期、音楽男や長井竜隆也、星しんじなどのメンバーが加入することもあった。
- 終戦後、世間の期待により、1947年に浅草の松竹座でカムバックを果たすが1951年に解散。 以降、坊屋、益田、山茶花は、舞台、映画界で活躍することになる。
[編集] 音楽性と芸風
- アメリカやイギリスのヴォードビルの雰囲気を漂わせた、歌や芸は知的水準が高く、スマートで風刺精神にあふれ、知的階層から庶民に至るまで幅広く受け入れられた。取り入れた音楽は、海外からはジャズ、オペラ、ポピュラーミュージック、シャンソン、アルゼンチン・タンゴ、キューバン・ルンバ、日本からは軍歌、謡曲、童謡、浪曲、新内、俗曲、琵琶、歌舞伎、新派演歌等々。さらには弁士、ニュース映画のナレーション、物売りの地口、江戸弁や東北弁、お経、ポパイやベティ・ブープ、ディズニー映画、動物の鳴き声まで。さらにはマルクス兄弟、バスター・キートンなどの喜劇的演技を取り入れた。これらをどん欲に、見事なアンサンブルでミクスチャーされた感覚は、日本芸能史のなかでも唯一無二であり、戦前モダニズム文化のレベルの高さが伺える貴重なグループといえる。
[編集] コンピレーション盤
- ぼういず伝説(1993年 ビクターエンタテインメント )中村とうよう監修
- あきれたぼういずアンソロジー(2005年 テイチク)
[編集] 映画出演
- ロッパの大久保彦左衛門(1939年/東宝映画/斎藤寅次郎監督)
- 弥次喜多 大陸道中(1939年/東宝映画/古野栄作監督)
- 弥次喜多怪談道中(1940年/松竹/古野栄作監督)
- 親馬鹿大将(1948年/大映/春原政久監督)
- エノケン・笠置のお染久松(1949年/東宝/渡辺邦男監督)
- 歌うまぼろし御殿(1949年/東京映画/小田基義監督)
- いれずみ判官 桜花乱舞の巻(1950年/東横映画/渡辺邦男監督)
- いれずみ判官 落花対決の巻(1950年/東横映画/渡辺邦男監督)
- エノケンの天一坊(1950年/エノケンプロ=東宝/渡辺邦男監督)
- 風流活殺剣(1952年/松竹/丸根賛太郎監督)
- お嬢さま捕物帳 恋の補縛(1952年/宝塚映画/倉谷勇監督)
- ひよどり草紙(1952年/東映/加藤泰監督)