黄帝内経
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黄帝内経(黄帝内剄・黄帝内教・こうていだいけい、こうていだいきょう、こうていないけい、こうていないきょう)は、現存する中国最古の医学書と呼ばれている。古くは鍼経(しんきょう)9巻と素問(そもん)9巻があったとされているが、これら9巻本は散逸して現存せず、現在は王冰(おうひょう)の編纂した素問と霊枢(れいすう)が元になったものが伝えられている。黄帝が岐伯(ぎはく)を始め幾人かの学者に日常の疑問を問うたところから素問と呼ばれ、問答形式で記述されている。霊枢は鍼経の別名とされ、素問が基礎理論とすると、霊枢は、実践的、技術的に記述されている。
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[編集] 概要
黄帝内経は、前漢の時代に編纂され鍼経と素問の合計18巻と伝えられている。その内容は散逸して一旦は失われたが、762年唐の時代に王冰の表した素問と霊枢が伝えられている。現代の研究では鍼経(9巻)は、霊枢(9巻)のことであるとされている。ただしこの9巻本も散逸してしまって残っていない。現在は1155年に南宋の史崧が霊枢を新たに校訂し24巻81篇として編纂したものが元になっている。
素問が理論的であるのに対し、霊枢はより実践的に記述されている。その内容は医学にかぎらず、易学、天候学、星座学、気学、薬学、運命学と、広くさまざまな分野に及び、医学書というより科学書と呼ぶべきであるという意見もある。現在、医学書とされている理由は、前一世紀の図書目録である、漢書芸文志に医書として分類されていることによる。
内経の原本は残っておらず、さまざまな写本が存在する。日本では京都の仁和寺に、日本最古の黄帝内経太素の写本が所蔵されている。太素(たいそ)は7世紀ころの写本で、素問と霊枢を合わせて編纂したものである。
黄帝内経18巻のうち、1部にあたる9巻を鍼経と呼び、2部の9巻を素問と呼ぶ。鍼経は経脈、経穴、刺鍼、また営衛、気血など系統的で詳細に説明されている。ここで9という数字には意味があり古代中国において、数(かず)は1から始まり9で終わるとされていた。すなわち1巻には1章から9章が記述され、9章の次は2巻となる。1部は9巻×9章で81章で一まとまりとなり、黄帝内経は2部構成であった。素問は、古くはBC202年の前漢時代ころから編纂され始めたと考えられている。
現存する素問は、762年に王冰によって編纂された。王冰は、それ以前の素問を大幅に変更したことが分かっており、王冰の素問からは古い素問を伺い知ることはできないと批判されている。
霊枢は、素問より新しい時代のもので、20年から200年ころ編纂された。素問より前に鍼経が編纂され、それが後に霊枢に引き継がれたと考えられている。芸文志には、内経(18巻)の他に外経(37巻)があったとの記録があるが、外経は現存せず詳しいことは分かっていない。
[編集] 霊枢
[編集] 未病
未病(みびょう)という用語は、黄帝内経で初めて使用された。
- 「聖人は既病を治すのではなく、未病を治す」
既病(きびょう)とは、既に発病したこと、未病とは発病する前の状態を言いう。日本未病システム学会では「自覚症状はないが検査では異常がある状態」と「自覚症状はあるが検査では異常がない状態」を合わせて「未病」と定義し、「自覚症状もあり検査でも異常が認められる状態」を病気(既病)と呼んでいる。
[編集] 陰陽五行説
黄帝内経は、陰陽五行説にのっとって記述されている。史記には、陰陽五行説は黄帝が定めたとされているが、黄帝内経については記述されていない。このことから黄帝内経は、史記より後に編纂されたと考えられる。漢書芸文志によれば、黄帝陰陽二十五巻、黄帝諸子論陰陽二十五巻などがあったと伝えられているが、現存していない。
[編集] その他
現存する中国最古の医学書としては黄帝内経の他に、神農本草経(しんのうほんぞうきょう)、傷寒雑病論(しょうかんざつびょうろん)がある。
また、これを基に独自の体系で解説したものに難経がある。