高見王
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高見王(たかみおう、生没年不詳。『千馬家系図』によると817年(弘仁8年)-855年(斉衡2年)。ただし文献によっては生年について824年(天長元年)、没年について848年(嘉承元年)としている物もあり、実態として生没年に関しては不詳とする方が正確性が高いと思われる)は平安時代中期の皇族もしくは賜姓皇族で在ったとされる。系統図である『尊卑分脈』には名前と無位無官で在った事だけが残っている。又『尊卑分脈』によると父に葛原親王(桓武天皇第5皇子)、子に平高望とされているが、これも定かではない。(詳細は後述)。『尊卑分脈』などの系統図にしか登場しない謎の人物である。
高見王はその後の桓武平氏に直結する流れであるが、その実在が疑われている。文献によると父の葛原親王は高見王が誕生する前に子孫に平性を賜り、臣籍への降下を朝廷に要請し、これが認められている。しかし高見王は平高見を名乗ったと言う記録は無い。これ以外にも文献上の矛盾が多く、又病弱で在ったと伝えられているが、それにしても皇族の身分であり、曲がりなりにも成年まで生き延びた人物が無位無官であったことは大きな疑問点である。逆に病弱であった人物が子孫を残しえたかと言う疑問も残る。従って現在では高見王を実在しなかった人物とし、子とされる平高望は父とされる葛原親王の子で在ったとする説を主張する歴史研究家は少なくない。