高村光太郎
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高村 光太郎(たかむら こうたろう、1883年3月13日 - 1956年4月2日)は彫刻家。東京都出身。本名は光太郎と書いて「みつたろう」。彫刻家の高村光雲の長男。東京美術学校(現・東京藝術大学)彫刻科卒業。
彫刻以外にも絵画や詩等でもいかんなく才能を発揮。『智恵子抄』等の詩集が有名になり教科書にも掲載されるようになったため詩人として認識されることも多い。
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[編集] 経歴
1906年に彫刻を学ぶためニューヨークに留学。その後ロンドン、パリに渡り1909年に帰国。 1912年駒込にアトリエを建てる。この年、岸田劉生らと結成した第一回ヒュウザン会展に油絵を出品。 1914年に詩集『道程』を出版。同年、長沼智恵子と結婚。1929年に智恵子の実家が破産、この頃から智恵子の健康状態が悪くなり後に統合失調症を発病する。 1938年智恵子と死別。1941年に詩集『智恵子抄』を出版。
1945年4月の空襲によりアトリエとともに多くの彫刻やデッサンが焼失した。五月、岩手県花巻町(現在の花巻市)の宮沢清六方に疎開(宮沢清六は宮沢賢治の弟で、その家は賢治の実家であった)。しかし同年8月には宮沢家も空襲で被災し、辛うじて助かる。終戦後の10月、花巻郊外の稗貫郡太田村山口(現在は花巻市)に粗末な小屋を建てて移り住み、ここで7年間独居自炊の生活を送る。これは戦争中に多くの戦争協力詩を作ったことへの自省の念から出た行動だった。この小屋は現在も「高村山荘」の名前で保存されている。 なお、国文学者の宮地裕は学生時代独居自炊していた光太郎に会ったことがある。
1950年、戦後に書かれた詩を収録した詩集『典型』を出版。第2回読売文学賞を受賞。
1952年、青森県より十和田湖畔の記念碑の作成を委嘱され、これを機に小屋を出て東京中野区のアトリエに転居し、記念碑の塑像(裸婦像)を制作する。この像は翌年完成した。
1956年に結核のため死去する。
[編集] 主な作品
彫刻作品の中にも美術の教科書に載ったものもある。
[編集] 関連文献
- 大島裕子『智恵子抄を歩く-素顔の智恵子-』新典社 2006年 ISBN 4787978381