韓国の華人
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韓国の華人とは、大韓民国に在住している華人。在韓華人とも言う。韓国内には、約2万4千人の華人が常住している。在韓華人の大部分は、中華民国(台湾)国籍である。
朝鮮への最初の中国人移民は、19世紀末に現れた。朝鮮に来た中国人の多くは、専門知識を有さない季節労働者が構成した。華人は、主として、海路でソウル、並びに海の玄関口である仁川に定住した。特に仁川では、1880年代末、朝鮮で最初の中国人街(チャイナタウン)が生まれた。
日本による統治時代の朝鮮の主要対外貿易相手が中国であった以上、華人は、1920年代から、朝鮮の対外貿易において大きな役割を演じた。1948年、韓国の全輸出入取引のほぼ52%は、現地華人に属する会社により実施されていた。
1931年に長春万宝山事件が起き、朝鮮日報の「中国人による朝鮮農民への集団暴行、大量殺人」の誤報で同胞への暴虐に憤った朝鮮人は平壌、仁川等、朝鮮半島各地および日本での華人街で排斥、集団暴行、殺人の暴動を起こした。これにより、多くの華人は家族、家財を失い、約1万人が中国への帰国し、華人社会は壊滅的な打撃を受けた。[1]
現在の在韓華人の大部分は、この事件の後の1945~1950年に韓国にやって来た。当時、中国では、内戦が進行中であり、大きな難民の流れを生み出した。主として国民党の支持者であった多くの華人は、韓国を含む国外に亡命した。これら難民の大部分は、黄海西岸に存在する山東省出身者だった。
当時、中国国民党政権は韓国政府の同盟国であったため、難民の大部分は、韓国に受け入れられ、国内居住の許可を与えられた。その一方で、民族主義的な李承晩政権は、華人が国内に留まり、根を下ろすことを警戒した。
韓国当局が1945~1980年に華人に対して行った政策は、現在の韓国において、弾圧・制限的なものと評されている。華人の韓国国籍取得は、非常に困難なものとされ、在韓華人は、永住外国人とならざるを得なかった。外国人である在韓華僑は、国家機関及び軍に勤務することができなかった。1961年の法律は、外国人の土地所有権を制限し、多くの華人農民は、急いで自分の地所を売却(あるいは、緊急に自分の韓国人妻か、韓国人の友人に名義換え)せざるを得なかった。華人は、韓国の民間会社、特に大企業への就職の際、大きな問題に直面するため、中小企業に甘んぜざるを得なかった。
その後、華人の大部分は、主として、急速に世界的規模の経済大国に変貌した台湾との対外貿易に従事し始めた。同時に、華人には、重要な特権である国内永住権を韓国当局から賦与された。それにも拘らず、華人も、韓国の出入国管理局で書類を手続し、2年に1度、自分の居住権を更新しなければならなかった。
在韓華僑の最盛期は、韓国に約10万人の華人が住んでいた70年代初めだった。ソウルの華人子弟の大部分は、ソウル中華中等学校で学び、少数の者だけが普通の韓国の学校に通った。
70年代末から、中国人住民の数と在韓華人の活動は、急速に低下し始めた。ほぼ同時に、当局側の華人への待遇は改善されたが、華人は大量に韓国を離れ、台湾に移住し始めた。
帰国が始まった原因の1つは、華人学校の卒業生である華人青年が、韓国の大学への入学の際に大きな問題を経験したことである。問題は、差別よりはむしろ、韓国人のみを指向した学校教育プログラム自体にあった。韓国社会では、卒業証書のない人間は、出世も、物質的豊かさの達成のチャンスもほとんどなかったため、華人は、良い大学に入れ、相応しい仕事を見つけられる機会が多い台湾に渡り始めた。一方で、国籍取得条件が緩和されたため、韓国永住を決めた一部の中国人は、韓国国籍を取得し始めた。
現在、韓国には、四半世紀前の4分の1以下である2万4千人の中華民国国民が存在する。華人は、韓国に滞在している全外国人の10分の1未満でしかないが、国内に永住している唯一の外国籍民族集団である。
[編集] 関連項目
[編集] 脚注
- ↑ アジア歴史資料センター Ref.B02030167000からB02030183200。特にB02030181500を見られたい。