障子
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障子(しょうじ)は、日本家屋における扉、窓に用いる建具の一つで、明かりを通すように木枠に紙張りになっているもの。明かり障子ともいう。
元来は現在の襖も含めて障子(さえぎるものの意)と言った。平安時代に「明かり障子」として襖から分離した。扉を閉じたまま採光できるという機能により広く使われるようになった。ガラスやカーテンが普及するようになって使用は減ったものの、ガラス併用の障子なども作られ消滅することはなかった。一部がガラスになっていて障子部分が開け閉めできるものを雪見障子という。
現代においてはインテリアとしの評価の他、ガラス戸との組合せによる断熱効果、紫外線カット効果などで見直されつつある。
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[編集] 明かり障子の歴史
[編集] 明かり障子の誕生
明かり障子の誕生は、平安時代末期の頃で、襖よりもおよそ100年程後に工夫されたと推測されている。建具の構造としては、間仕切りとしての隔ての機能をもつ襖に近く、さらに襖よりも簡素ながら、隔てと採光いう矛盾した機能を併せもつ明かり障子の発明は、画期的なことであった。
平安時代後期になると、引き違いの格子戸が広く使用されるようになった。『源氏物語絵巻』『年中行事絵巻』などには、黒漆塗の格子戸を引き違いに使ったり、嵌め込み式に建て込んだ間仕切りの様子が描かれている。
天喜元年(1053年)藤原頼通が建立した平等院鳳凰堂は四周の開口部には扉を設けているが、その内側に格子遣戸も併せ用いている。このような格子遣戸の用い方は、隔ての機能を果たしながら、採光や通風を得ることができる。機能としては、明かり障子の前身ともいうべきものである。
現在のような薄紙を貼った明かり障子の誕生は、平安末期のころである。六波羅の地には平家一門の邸宅が、甍を競って建ち並んでいた。なかでも平清盛の六波羅泉殿は、その権勢を象徴する豪壮な邸宅であったという。その復元図によると、従来の寝殿造りとはかなり異なり、間仕切りを多用した機能的合理的工夫がみられる。
その中でも、明かり障子の使用は画期的な創意工夫であった。 室外との隔ては、従来壁面を除き蔀戸や舞良戸が主体であり、開放するると雨風を防ぐ事ができず、誠に不便な建具であった。採光と隔ての機能を果たすため、簾や格子などが使用されていたが、冬期は誠に凌ぎにくかった。京都は盆地なので、ことに冬期は底冷えする。室内では、屏風をめぐらし、几帳で囲み火鉢を抱え込んだと思われる。
隔てと採光の機能を充分に果たし、しかも寒風を防ぐ新しい建具として、明かり障子が誕生した。しかし、明かり障子のみでは風雨には耐えられないため、舞良戸、蔀、格子などと併せて用いられた。六波羅泉殿の寝殿北廂の、外回りに明かり障子が三間にわたって使用されていた。
『山槐記』には、この寝殿や広廂に「明かり障子を撤去する」とか「明かり障子を立つ」などの記述もある。
平清盛が願文を添えて長寛二年(1164年)厳島神社に奉納した『平家納経』図録には、僧侶の庵室に明かり障子が描かれている。
この時代の明かり障子の構造は、四周(ししゅう)に框(かまち)を組み、太い竪桟二本に横桟を四本わたし、片面に絹または薄紙を貼ったものであったという。
寝殿造りの室礼を記した古文書の中に、「柱をたてまわして鴨居を置きてのち、塗子(ぬりこ)の明かり障子を間ごとに覆う」とある。
『春日権現験絵日記』にも、黒塗りの明かり障子が描かれている。また、襖障子と同じように、引手に総が付けられている。明かり障子の歴史的発展の過程で、漆の塗子の縁が寝殿造りに使用され、襖障子と同様な室礼としての位置付けがあったことは注目に値する。
框に細い組子骨を用いる現在のような明かり障子は、鎌倉時代の絵巻物に多く登場するようになるが、多少の時間と技術改良を必要とした。
明障子は壊れやすく、現存するものは極めて少ない。南北朝期康暦二年(1380年)の東寺西院大師堂の再建当時のものとされている明障子が、最古の明障子といわれている。上下の框と桟も同じような幅でできており、縦桟と横桟を交互に編み付ける地獄組子となっており、また桟の見付けと見込みもほぼ同じ寸法でできている。
[編集] 子持ち障子
1本の溝に2枚の明かり障子を引き違いにしたものを子持ち障子という。たとえば、元興寺の鎌倉時代の禅室にある。当時のみで深い溝を彫るのは、相当の手間であったろう。2本の溝を彫るよりも、幅の広い溝を1本彫るほうがわずかに簡単であったのかもしれない。しかし、禅宗様の建築であることから、技巧的な遊びと考えた方が妥当と思われる。
1本の溝に2本の障子を入れても、そのままでは引き違えないので、工夫がある。召合わせの縦框はそのままにして柱側の縦框をほぼ溝幅に合わせて作ってある。こうすると、明かり障子は外れることなく、引き違うことができる。
子持ち障子は、禅宗方丈建築の最古の遺構である、東福寺竜吟庵方丈にも使われている。ここでは、一本の溝に四本の明かり障子が立てられている。中央の2枚が上記の方法で引き分けられ、外の2枚は幅が狭く、開閉のできない嵌め殺しとなっている。 禅宗様の建築では、随所に意匠の工夫や技工の斬新さが見いだされる。
[編集] 杉障子の誕生
[編集] 腰高障子
明かり障子は採光の必要から考案された建具である。採光の為に建物の外回りに使用する。しかし、風雨に曝されると薄紙は破れてしまう。実際の使用状況を絵巻物で見ると、半蔀を釣って内側に明かり障子を立てている。つまり、下半分の蔀は建て込んだままである。
こうした実際の使用状況から、明かり障子の雨が当たりやすい下半分に板を張った、腰高障子が考案されている。腰高はおよそ80㎝で、半蔀の下半分と同じ腰高であったのも、必然であった。南北朝時代の観応二年(1351年)に描かれた真宗本願寺覚如の伝記絵『慕帰絵詞』に僧侶の住房に、下半分を舞良戸仕立てにした、腰高障子が2枚引き違いに建てられているのが描かれている。
[編集] 障子紙
[編集] 美濃雑紙
室内を明るくする採光を目的とした明かり障子は、透光性のよい薄い紙が良いが、破れにくい粘り強さが必要であり、また価格も安い物が好まれる。このような条件を満たす紙としては、壇紙(だんし)や奉書紙、鳥の子などは不適当で、障子紙としては雑紙や中折紙など、文書草案用や包み紙などの雑用の紙を用いた。中でも美濃紙は美濃雑紙と呼ばれて、多用途の紙として最も多く流通していたので、障子紙としても多用され、美濃雑紙が明かり障子紙の代表として評価されるようになった。
[編集] 書院紙
明かり障子は書院造様式によって普及し、「書院の明かり障子」といわれたことから、明かり障子に貼る紙は、書院紙と呼ばれるようになった。書院造では、障子の格子桟の寸法が地方によって異なるので、書院紙は全国ほとんどの紙郷で漉かれたが、産地周辺で消費され、市場で流通することが少なかった。ごく一部が書院紙として流通したが、『和漢三歳図絵(わかんさんさいずえ)』(寺島良安編 1713年)には、「濃州寺尾より出るものもっとも佳し。防州之に次ぎ、奥州岩城、野州、那須、芸州広島、また之に次ぐ。」とある。この他に、因幡、甲斐、肥後、土佐、信濃などで産した書院紙が市場で流通した。この中では、美濃国、甲斐、土佐の書院紙が、今日でも障子紙の産地として命脈を保っている。
『新選紙鑑(かみかがみ)』には、書院紙として美濃書院紙・美濃紋書院紙、安芸の諸口紙そして因幡書院紙をあげているが、中折紙、三つ折紙、大判紙なども書院紙として利用された。
明治初期の『諸国紙名録』には多くの紙に障子用として注記しているので、このころでも全国の各地でさまざまな地域の建具寸法に合わせた書院紙が漉かれ続けていたことが分かる。
[編集] 美濃書院紙
『和漢三才図会』には、障子の項で、「濃州寺尾より出るものもっとも佳し。故に呼びて美濃紙と称す。以て書籍を写し 書翰を包み、障子および灯籠を張るのに 之にまさるものなし。」とある。濃州寺尾とは、現在の岐阜県武儀郡武芸川町寺尾である。
『新選紙鑑(かみかがみ)』には幕府ご用の障子紙、すなわち書院紙の漉工として、市右衛門、五右衛門、平八、重兵衛の4人の名をあげている。このほかにも濃州牧谷、洞戸、岩佐、谷口のものも良品としている。美濃書院紙という名は、書院造とともに発展し、明かり障子に最もふさわしい紙として定着した。
明治初期の『岐阜県史稿』によると、二つ折美濃、三つ折美濃という紙があり、明治九年(1876年)の『米国博覧会(フィラデルフィア万国博覧会)報告書』には、「二ツ折ハ障子二格間(格子間)ヲ貼るニ便シ、三ツ折ハ三格間ヲ併セテ貼ルの料トス。」とある。
書院紙は、障子の格子幅に併せて漉かれたが、障子の格子の幅は各地域でまちまちで規格が統一されていなかつた。たとえば、美濃書院紙の場合、尾張・美濃用は縦寸法が九寸三分、三河用は八寸三分、伊勢用は八寸二分であった。此の各地の格子の幅のまちまちの伝統は、今日でも受け継がれている。
[編集] 模様入りの障子紙
障子紙の中に、紋書院紙と呼ばれる透かし文様が入ったものがある。享保十七年(1732年)刊の三宅也来の『万金産業袋』の美濃国のなかに「紋障子」とあり、元文三年(1738年)刊の伊藤実臣の『美濃明細記』には、武儀川流域で紋透かし紙を漉いていたことが記されている。
また安永六年(1777年)刊の『難波丸項目』に紋美濃そして同年刊の『新選紙鑑(かみかがみ)』のなかの美濃産紙の項に「紋障子」とある。この紋書院紙は、美濃のほか筑後柳川や肥後でも紋書院紙を産し、『諸国紙名録』には、肥後産紋書院紙を「スカシヨシ」と注記している。
美濃紋書院紙では、鹿子(かのこ)・紗綾形・菊唐(から)草・七宝 ・亀甲(きっこう)などの美しい紋様が漉き込まれ、障子以外にも行灯や灯籠などにも用いられた。近年美濃市でつくっている落水紙(美光紙ともいう)には、紋様を入れた紋書院紙風のものもある。
紋書院紙のほかに紋天具(てんぐ)帖というのがある。これは極薄の天具(てんぐ)帖紙に透かし紋様ではなく、胡粉(ごふん)の具などで木版摺(す)りしたもので、のちに型染めで捺染するようになったが、やはり光を透かして美しい紋様を浮かび上がらせて楽しむもので、灯籠などに用いられた。
[編集] 関連項目
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