陸瑁
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若い頃から学問を好み、義に厚く、清貧の士を厚遇して彼らと苦楽を共にした。同郷の徐原という人が死に臨んで、全く面識の無かった瑁に手紙を送って家族の面倒を見てくれるよう願った。徐原の死後、瑁は彼のために墓を作り、遺児たちへ教育を与えて、これに応えた。また、叔父の陸績が早世すると、宏、叡、鬱生の三人の子女らを引き取り、成人まで立派に養い育て、績の跡を継がせた。
こうした瑁の行いを聞いた州郡の役所から、たびたび招聘や推挙を受けたが、瑁は一切応じようとしなかった。
233年、孫権に召された陸瑁はようやく出仕し、議郎・選曹尙書の官に就く。
その頃、遼東の公孫淵が、孫権の送った友好の使者を斬り、魏へ帰順する事件が起きた。孫権は激怒して遼東への遠征を計画したが、陸瑁は次のように上奏して諫めた。
「公孫淵は、いわば礼を知らぬ禽獣の類です。無礼な振る舞いをするのは、そうした獣や匪賊の故でございます。今、上はかの者への征討をお考えですが、いたずらに攻め込めば公孫淵は魏と結ぶでしょう。また、そのような遠征にかまけていては、我々も山越(呉をしばしばなやませた異民族)に足下をすくわれましょう」 しかし、孫権は聞く耳を持たなかった。そこで、陸瑁は再度上奏した。 「戦役というのは、ある程度国内が治まっていても難しいものです。現在、呉は山越など異民族への問題を抱えており、外は魏との小競り合いが絶えません。そのような状況で、遙か遠方で反逆が起こったとして遠征をするのは、いかがなものでしょう」
これを読んだ孫権は、今度こそ陸瑁の筋の通った意見に納得し、遠征を取りやめた。
陸瑁には少なくとも二人の息子がおり、次男を喜(字は文仲)といい、晉に仕えて散騎常侍となった。喜の息子は曄(字は士光)、玩(字は士瑤)といい、やはり晉に仕えた。このうち曄は車騎将軍・儀同三司に至り、玩は司空(死後に贈大尉)にまで昇進した。「晉陽春」という書によれば、陸玩は広い度量を備え、正当な教養を備えた人物であったという。