陳淑陵
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陳淑陵(ちんしゅくりょう、生年不詳-582年)は、中国の南北朝時代陳の皇族。第4代皇帝・宣帝の次男。字は子嵩。生母は彭貴妃、異母兄に陳淑宝(陳の後主)、同母弟に湘州刺史・建安王陳淑卿がいる。
568年、康楽県侯に封じられる。翌569年に揚州刺史・始興王に昇格した。
彼は厳格かつ残忍な性格で、自分の領土で全ての政務を執り行なった。つまり隅から隅までの業務を部下に触れさせず、そのことで家臣が反論し直言すると、彼は激怒し父帝に上奏しその家臣を処刑したという。そのために周りから恐れられる存在となった。やがて次第に傲慢さが増大し、家臣に恩賞を与えずに自分で財宝を独占し、税金など苛酷な賦役を課し、家臣や領民を虐待したという。また、古代の君主の墓陵を暴いて、価値がある財宝を独占し放題だったという。さらに統治下で領民の美しい人妻や若い娘がいると強制的に召集し自分の後宮に入れたという。そのために彼の領土周辺では怨嗟が広大し、これを知った陳の重臣の施文慶らが宣帝に上奏し、始興王の処分を要求した。だが帝は愛する彭貴妃の子を処分するのに忍びず、厳重注意のみに滞(とどめ)たという。
だが、異母兄の太子・陳淑宝は異母弟の跋扈に苦々しく思い不快感を表した。582年正月に父・宣帝が崩御すると、新皇帝の陳淑宝は施文慶と諮って始興王の造反を煽り出し、これに乗った陳淑陵は自分が帝位を奪るべく反乱を起こしたが、これを待ち構えた施文慶は右衛将軍・蕭摩訶に朝廷軍を率いさせて、始興軍を迎え撃たせてこれ壊滅し、陳淑陵は戦死を遂げたということである。
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