長谷川海太郎
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長谷川 海太郎(はせがわ かいたろう、1900年1月17日 - 1935年6月29日)は、日本の小説家。林不忘(はやし ふぼう)、牧逸馬(まき いつま)、谷譲次(たに じょうじ)の3つのペンネームを使い分けて活躍した。
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[編集] 生涯
後にジャーナリストとして活躍する長谷川清(別名淑夫。楽天、あるいは世民とも号する)の長男として新潟県佐渡郡赤泊村(当時)に生まれる。なお同家次男の潾二郎は画家、三男の濬はロシア文学者、四男の四郎は作家となった。1歳のとき、函館新聞の主筆となった父に従って一家で函館に移住、同地の北海道庁立函館中学校(現函館中部高校)を卒業する。当時の函館は国際色豊かな港町であり、海外への憧れを抱き成長したという。
1920年8月、米国オハイオ州のオベリン大学に留学するも間もなく退学、様々な職種を転々としながら全米を放浪する。1924年には貨物船の船員として大連に至り、そこで下船してようやく帰国する。
1925年から雑誌『新青年』や『中央公論』に、谷譲次の筆名で「めりけんじゃっぷ」シリーズを連載する。これは滞米中の実体験に基づき、アメリカで生きる日本人(日系人)単純労働者の生き方をユーモラスに描いたもの。
1927年からは東京日日新聞・大阪毎日新聞に、林不忘の筆名で時代小説「丹下左膳」の連載を開始(当初の題名は「新版大岡政談」)、片目片腕のニヒルな剣豪ヒーロー丹下左膳の冒険談はたちまち人気小説となり、早くも連載中の1928年には最初の映画化がなされた。
牧逸馬の筆名では、欧米の犯罪小説、怪奇小説の翻訳・翻案物や昭和初期の都市風俗小説を著し、女性読者層にも人気を博した。
また1927年から1年超にわたって、中央公論社特派員の名目で夫婦でヨーロッパを旅行、その旅行記は谷譲次著「新世界順礼」として同誌に連載され、後に「踊る地平線」の書名で単行本化された。
1935年6月29日、鎌倉の自宅で35歳の若さで急死。持病の喘息の発作だったという。
[編集] 著書(入手容易なもの)
[編集] 谷 譲次
- 「テキサス無宿/キキ」 みすず書房 (ISBN 4622048396)
- 「踊る地平線(上・下)」 岩波文庫 (ISBN 4003116011) (ISBN 400311602X)
[編集] 林 不忘
- 「丹下左膳(全3冊)」 光文社時代小説文庫 (ISBN 4334736904) (ISBN 4334737048) (ISBN 4334737218)
[編集] 牧 逸馬
- 島田 荘司 (編)「牧逸馬の世界怪奇実話」 光文社文庫 (ISBN 4334735770)