長谷堂城
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長谷堂城(はせどうじょう)は、山形県山形市長谷堂にあった城。形式は山城である。
[編集] 概要
長谷堂城は、山形城に居する最上氏にとって重要な支城の一つであった。特に、置賜地方にあった長井氏を滅ぼした伊達氏との争いの中で重要な防御拠点であり、伊達氏に当城を落とされた最上氏は一時伊達氏の傀儡となる有様であった。
歴史上、最も当城が注目されたのは1600年(慶長5年)、関が原の合戦とほぼ同時期に発生した出羽合戦(西軍の上杉氏が東軍の最上氏を侵攻したもの)の頃である。当時、福島県会津地方及び山形県庄内地方と置賜地方、合わせて150万石と言われた上杉勢は西軍に与しており、東軍に付いた最上氏(約24万石)を制圧するため、現在の山形県置賜地方(最上領の南方)と庄内地方(最上領の西北)から、上杉景勝配下の直江兼続を大将として最上氏攻略を図った。そして、その支城をことごとく開城または落城させていき、山形城攻略のための最終的な足場確保のために長谷堂城を攻めた。それに対し、最上義光の幕下で智将と言われた 志村伊豆守光安は約一千の手勢を従えて篭城しその攻撃に耐えた。また、時には、長谷堂城の山裾の足場のぬかるみとなっており、これにとまどい前進できない上杉勢を攻め立て悩ませた。この合戦において上杉勢は溝口左馬之助、上泉主水等の猛将が討ち死にするなど、大打撃を受けたと言える(城を見上げる水田の中に主水塚がある)。
そのように志村勢が持ちこたえる中、石田三成率いる西軍が関ヶ原で敗北した結果、上杉勢も退却せざるをえなくなり、志村は見事長谷堂城を小勢で守りきることができた。
この合戦における上杉方の敗因を考えると、最上勢の奮戦、長谷堂城の防御力の高さだけでは説明が難しい。おそらく、直江兼続の侮りがあったと考えられる。堅城を誇った長谷堂城を「たかが小城」と思ったか、最上氏や守将の志村を田舎武士と侮ったのか、もしくはその両方なのか、いずれにせよ、軽くひねり潰して山形城を攻略するつもりであったろう。しかし、それは大きな読み違いであったと言えよう。
その長谷堂城は標高229mの小さな山であり、現在は集落と水田に囲まれ、「城山」と呼ばれている。城山山頂にある本丸跡は城址公園となっており、山形城址を含む山形市と蔵王連峰を見渡すことができる。また、城山の中腹には「最上十二番札所長谷堂観音」がある。なお、城山から少し離れると、湯田と言う地区に有名な「ころり観音」がある。