長宗我部国親
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長宗我部 国親(ちょうそかべ くにちか、永正元年(1504年) - 永禄3年6月15日(1560年7月8日))は土佐の戦国大名。長宗我部兼序の子で長宗我部元親の父。野の虎と評される。
[編集] 経歴
1508年、父長宗我部兼序が、その横暴を怒った本山氏を中心とする豪族連合に攻められて自害すると、国親は一条房家に保護されて養育される。(異説もある)そして1518年、房家の助力によったと言われているが、仇敵本山茂宗と和睦して嫡男本山茂辰と娘を婚姻させ、岡豊城に復帰して長宗我部氏を再興する。本山家の一門衆として重用された国親は忠臣として振舞いつつ、その裏で周辺豪族を調略し長宗我部氏の勢力拡大に励む。周辺豪族を攻めたり、息子を送り込み乗っ取るなどして力を蓄えた国親は、権勢を誇った本山茂宗の死後、猛然と牙を剥いて本性を現し、本山氏の旧領を侵略しはじめる。戦いは一進一退ながらも、長宗我部家に次第に有利に運ぶ。だが、その戦いのさなか、志半ばで病没する。
政略はたくましく、元親以外の男子の多くを他家に養子に出し、家督を継がせるなど、中国の毛利氏と似たことをしている。
意志を継いだ息子元親の代には本山氏を滅ぼす。 長宗我部家再興のために生き、策謀と戦いの人生だった。
1547年、土佐一条氏の支城である大津城を攻める。さらに1556年には三男親泰を香宗我部氏に養子として出す(香宗我部親泰)。
1560年、長浜合戦で宿敵・本山氏の支城である長浜城を攻め落とす。さらに勢いに乗って浦戸城も攻めたが、このとき病にかかって急死した。なお、この戦いで嫡男の長宗我部元親が見事な初陣を飾ったと言われている。
国親は「一領具足」と呼ばれる在地の兵農兼業組織を活用し、後の長宗我部氏発展の基礎を作り出した名君である。