野村芳兵衛
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野村 芳兵衛(のむら よしべえ、1896年 - 1986年)は、日本の教育者。岐阜県洞戸村(現在の関市洞戸地区)の農家に長男として生まれる。家は浄土真宗で特に親鸞に信仰しており、これは野村の精神形成に大きな影響を残した。彼は、真宗の活動家、梅原真隆(しんりゅう)に傾倒し、彼の言葉「純に生きる」を生涯を通じてのモットーとした。
彼は、当初、農家を継ぐことになっていたが、高等小学校を終えた後、校長から代用教員にと嘱望され、その後准教員を経て、岐阜師範学校に進学。卒業後、地元の小学校、岐阜女子師範学校付属小学校を経て、1924年上京して、野口援太郎が自由主義教育の模範校として創立した池袋児童の村小学校の訓導となる。彼は地方の農村部の教育に従事してきたため、東京の知識人階層の新思想にはなかなか馴染めないものを感じ、生活からの教育を自らのよりどころであつた、親鸞の同行二人を借りて、生活を基礎にし共生協力、あるいは協同自治の精神で、みんなが共に学んでいくことのできる場を作っていくことを教師の役割と捉えた。また、1935年には児童の村小学校の内部に「生活教育研究会」をつくり、機関誌「生活学校」を創刊、その主幹となった。編集主任は、戸塚廉が担当した。学校がわずか1年で閉校になると共に、雑誌は営利出版とかたちを変え、野村はその一線から交代する。野村は、1936年の学校の閉校の最後までその場に留まった最後の教師になった。
その後、第二次世界大戦後、郷里の岐阜で岐阜師範学校付属の長良国民学校(のち小学校)の校長に迎えられる。しかし、破壊活動防止法案に批判的な発言をしたことが原因で、更迭される。
[編集] 主要な著作
- 『野村芳兵衛著作集』全8巻 黎明書房 1973-74年
- 『文化中心修身新教授法』(のち、『生命信順の修身教授法』)1925年
- 『新教育に於ける学級経営』1926年
- 『生活訓練と道徳教育』1932年
- 『出会いの保育―指導案の立て方から評価まで』1982年