野村徹
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野村 徹(のむら とおる、1937年1月1日 - )は昭和から平成にかけてアマチュア野球で捕手・監督として活躍した人物。
大阪府立北野高等学校から1957年早稲田大学に進み、頭脳派捕手として活躍した。1960年の早慶6連戦では6戦全てにマスクをかぶり、エース安藤元博の力投を支え本塁を文字通り死守しリーグ優勝に貢献した。
卒業後は社会人の大昭和製紙でプレーし、引退後監督を務め1970年の都市対抗野球でチームを優勝に導く。その後近畿大学附属高等学校の監督に招かれ、1988年に春夏連続甲子園出場を果たした。
その後長く高校野球の解説を務めていたが1999年2月に母校早大の第16代監督に就任。これまでの監督の多くが所属する社業と監督業とを兼務せざるを得なかったが、野村は朝から夜遅くまでグラウンドに立ち続けフルタイムでチームを指導した。成果はいきなりその年の春季リーグ戦で表れ、藤井秀悟・鎌田祐哉の両エースを擁して全10試合無失策という堅い守りを見せて優勝を飾る。2002年からはチーム史上初のリーグ戦4連覇を達成、2003年秋季にはこれもチーム初の10戦全勝優勝を達成した。
2004年秋季に應武篤良をコーチに入れ、そのシーズン限りで應武に監督を譲り勇退。現在、日本高野連評議員。早大の試合がある日には神宮を訪れ、選手たちに暖かい視線を送っている。
野球は守備から、という信念のもと、1球の大切さを選手たちに厳しく教え、低迷が続いていた早大野球部を見事に再建した。門下からは藤井・鎌田の他に東辰弥・江尻慎太郎・和田毅・比嘉寿光・鳥谷敬・青木宣親・由田慎太郎・田中浩康らのプロ選手を送り出した。彼らOBからは「1球の大切さ」を野村から学んだということが異口同音に語られる。
なお早大からは2006年の宮本賢・山本一徳まで8年連続でドラフト指名選手が出ているが、その最初が野村監督初年度の藤井であった。
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