都城駅
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都城駅(みやこのじょうえき)は、宮崎県都城市栄町4553番地に所在する九州旅客鉄道(JR九州)日豊本線と吉都線の駅。
都城市の代表駅で全列車が停車。
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[編集] 駅構造
駅舎に接する単式ホーム1面1線と島式ホーム2面4線の計3面5線および複数の留置線の設備を有する地上駅。1番線の隣にはかつての貨物ホーム、1番線と2番線の間に中線を撤去跡もあり往年の繁栄を偲ばせる。各ホームは地下道で連絡しているが天井は非常に低い。かつては2、3番ホーム上にキオスクと軽食屋が存在したが廃止された。
駅舎に接する単式ホームとその次の島式ホームに日豊本線の列車は発着し一番奥の島式ホームを吉都線が使用している。
駅舎は鉄筋コンクリート造2階造で昭和50年3月に完成したものである。
[編集] 駅周辺
都城の中心部は当駅でなく隣の西都城駅が近いがこの駅も都城の市街への玄関口の一つである。駅前にはホテルや大規模な商店などもあって都城市の代表駅にふさわしいたたずまいである。
日豊本線の線路は都城の中心的市街地を囲むようにしてこの駅の南西にある西都城駅方面から当駅へ走っている。吉都線は北東方面からこの駅に入ってくる。そうして両線はこの駅で合流するのである。以下には当駅附近の主な施設等を列挙する。
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[編集] 歴史
都城の町に最初にできた駅が当駅である。当時は九州の南側にのびる唯一の鉄道であった鹿児島本線(現在の肥薩線)の吉松駅から宮崎方面に線路を伸ばそうとして宮崎線がまず大正元年(1912年)の10月1日に吉松駅から小林町駅(現在の小林駅)まで開業しその後順調に線路を伸ばしていってこの駅まで開業したのが、大正2年(1913年)10月8日のことであった。
開業した当初こそこの駅は吉松からの宮崎線の終着駅であったが大正3年(1914年)2月11日に宮崎線は三股駅まで延伸、その後も着実に線路を開通させて行き大正5年(1916年)10月25日には青井岳駅と清武駅の間の開通を以って吉松駅から当駅を経て宮崎駅までがつながった。
宮崎線はその後大正6年(1917年)9月21日には宮崎県営鉄道妻線をあわせて吉松駅から広瀬駅(現在の佐土原駅)までの宮崎本線となるがその後も路線を北へ北へと伸ばして行き大正12年(1923年)の12月15日には市棚駅から重岡駅までの開通によって同じく小倉駅から南に線路を伸ばしていた豊州本線とつながることとなり小倉駅から吉松駅までが日豊本線とされるにいたった。この年の1月14日には当駅から西都城駅をへて末吉駅まで志布志線が開通している。
小倉駅から吉松駅までが日豊本線とされたがしかし都城から鹿児島方面へを吉松廻りではなく海岸線にそって結ぼうという気運は高まり当時はすでに鹿児島方面から国分駅(現在の隼人駅)までは線路があったから都城とこの国分駅を結ぶ線路がつくられることとなった。そして都城からは国都東線が志布志線の西都城駅からまず財部駅まで昭和4年(1929年)の4月28日に開業した。国分からも国都西線の名で都城方面への線路の開設が行われついに昭和7年(1932年)の12月6日に大隅大川原駅から霧島神宮駅までの開通によって都城から鹿児島方面へが海岸線周りで結ばれることとなった。このことを受けて同じ日に小倉駅から当駅、西都城駅、隼人駅を経て鹿児島駅までが日豊本線となって当駅から小林駅を経て吉松駅までは吉都線として分離された。当駅が現在のように日豊本線と吉都線の接続駅となるのはこのときからである。なお志布志線は、当駅からではなく西都城駅からの路線に変更されている。
この駅はその後昭和62年(1987年)の国鉄の分割民営化をうけて九州旅客鉄道(JR九州)の駅となり、現在に至っている。
[編集] 年表
- 1913年(大正2年)10月8日 - 宮崎線谷頭~都城駅開通により鉄道院が開設
- 1923年(大正12年)1月14日 - 都城~末吉駅志布志線開通
- 1929年(昭和4年)4月28日 - 国都東線西都城~財部駅開通す
- 1932年(昭和7年)12月6日 - 大隅大川原~霧島神宮駅開通により小倉~宮崎~都城~財部~鹿児島駅全通日豊本線所属、西都城~志布志駅間志布志線、都城~吉松駅吉都線に路線所属分離
- 1945年(昭和20年)8月6日 - 都城大空襲により駅構内全焼
- 1979年(昭和54年)9月25日- 南宮崎~鹿児島駅間電化
- 1987年(昭和62年)4月1日 - 国鉄分割民営化により九州旅客鉄道が継承
[編集] 隣の駅
- 吉都線
- 日向庄内駅 - 都城駅