逢紀
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逢紀(ほうき、153年?-203年)は、後漢末期の武将。字は元図。
何進に仕えていた頃から同僚であった袁紹とは親しく、後に許攸とともにその旗揚げを助けて参謀として仕えた。冀州を韓馥から奪うように進言している。度々袁紹の危機を救ったために参謀の中でも最も重用されたが、同僚の参謀であった審配・田豊とは仲が悪く、常に対立していた。特に後者との不仲は深刻で袁紹が後に官渡の戦いのとき、田豊の進言を用いなかったのは、逢紀の讒言を信じていたためと言われている。後に、袁紹に讒言して田豊を処刑させた。
袁紹の死後、袁紹の三男・袁尚を審配と共に支持し、長男の袁譚を支持する一派と対立する。これにより、袁紹が一代で築き上げた袁氏の勢力を分裂させることにまでつながってしまった。この骨肉の内紛を見て、曹操が侵攻して来る。袁尚は兄の袁譚に命じてこれを迎撃させたが、袁譚が増援を頼んでも、袁尚は兄に対して増援を送らなかった。このため、袁譚軍は曹操軍に大敗し、怒った袁譚は、袁尚が自分の目付役として付けていた逢紀を殺害したのであった。