近江八景
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近江八景(おうみはっけい)とは、中国湖南省の洞庭湖および湘江から支流の瀟水にかけてみられる典型的な水の情景を集めて描いた瀟湘八景図(北宋時代成立)になぞらえて、琵琶湖の南部から八箇所の名所を選び、瀟湘八景の情景と組み合わせ、名所の魅力をさらにアップさせた名所セットである。
ちなみに、瀟湘八景図は、洞庭秋月・漁村夕照・山市晴嵐・遠浦帰帆・煙寺晩鐘・瀟湘夜雨・平沙落雁・江天暮雪の情景から構成される。
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[編集] 由来
明応9年(1500年)近江に滞在した近衛政家(公家)が、近江に因んでの和歌八首を詠んだ、とする史料(吉田元俊編『扶桑名勝詩集』延宝8年=1680)もあるが、当時の政家の日記『後法興院記』の調査により、政家が近江に滞在して近江八景の和歌を詠んだとされる明応9年8月13日は、外出せず自邸にこもっていたことが判明している。
伴蒿蹊の随筆『閑田筆耕』(寛政2年=1790)には、慶長期の関白・近衛信尹(このえのぶただ、1565~1614)自筆の近江八景和歌巻子を知人のもとで観覧し、同巻子の奥書に、現行の近江八景と同様の、名所と情景の取り合わせに至る八景成立の経緯が紹介されている。この記事により、現行の近江八景の成立は、近衛信尹によるものという見方が有力である(奥書の原本は未確認である)。
実際、政家によって近江八景が成立したとなると、室町時代に制作された近江八景図の遺例が存在してもよいのだが、そのような作例は確認されていない。近江八景の絵画作品の登場が17世紀後期以降であることを考えると、先行すべき和歌の成立が17世紀初期であるのは自然である。
[編集] 内容
- 石山の秋月
- 勢多(瀬田)の夕照
- 粟津の晴嵐
- 矢橋(八橋)の帰帆
- 三井の晩鐘
- 唐崎の夜雨
- 堅田の落雁
- 比良の暮雪
[編集] 唱歌
- 1900年に大和田建樹が作詞した『鉄道唱歌』第1集東海道編では、建樹が強い関心を持っていたためか、近江八景をわざわざ歌詞を割いてまで全て歌いこんでいる。
- 39.いよいよ近く馴れくるは 近江の海の波のいろ その八景も居ながらに 見てゆく旅の楽しさよ
- 40.瀬田の長橋横に見て ゆけば石山観世音 紫式部が筆のあと のこすはここよ月の夜に
- 41.粟津の松にこととえば 答えがおなる風の声 朝日将軍義仲の ほろびし深田は何(いず)かたぞ
- 42.比良の高嶺は雪ならで 花なす雲にかくれたり 矢走(やばせ)にいそぐ舟の帆も みえてにぎわう波の上
- 43.堅田におつる雁がねの たえまに響く三井の鐘 夕くれさむき唐崎の 松には雨のかかるらん
- 44.むかしながらの山ざくら におうところや志賀の里 都のあとは知らねども 逢坂(おうさか)山はそのままに