跡部勝資
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跡部 勝資(あとべ かつすけ、天文16年(1547年) - 天正10年3月11日(1582年4月3日))は戦国時代の武将。武田氏の家臣。
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時代 | 戦国時代 | |||
生誕 | 天文16年(1547年) | |||
死没 | 天正10年3月11日(1582年4月3日) | |||
官位 | 大炊助、尾張守 | |||
主君 | 武田信玄→武田勝頼 | |||
氏族 | 跡部氏 | |||
父母 | 父:跡部信秋 | |||
子 | 跡部昌勝、和田信業 |
父・跡部信秋は武田晴信の傳役。武田氏の譜代奉行衆の跡部勝忠・跡部昌忠とは別系である。 武田氏の譜代衆で、甲陽軍鑑によれば300騎持の侍大将であった。祖先は甲斐守護代を務め武田氏と対立した跡部景家ともいわれているが定かではない。尚、武田家において300騎持は山県昌景と並び最大級の動員力である。(甲陽軍鑑中に見える春日虎綱(高坂昌信)の450騎は過剰であろうという説が一般的)
[編集] 武田家中での地位
武田信玄が当主の時期から傍近くに仕え、信玄期後期に竜朱印奏者となる。竜朱印奏者とは武田家において行政執行の裁量権を持つ者の事で、軍政の中枢に位置する者である。時期は前後するが、他の竜朱印奏者に山県昌景・土屋昌次・原昌胤などがいる。意外であるが、所謂信玄子飼いの武将の一人である。
信玄没後そのまま武田勝頼の側近として仕えたが、甲陽軍鑑等においては奸臣として評される。しかし勝頼には重用されている。奸臣と評される理由としては、いわゆる武断派と吏僚派の折り合いの悪さという説が一般的であるが、勝資自身武田家で最大級の動員力を誇る侍大将であり、一概に内務臣僚ということは出来ない。
しかしながら、勝頼が行わなくてはならなかった武田家の構造改革を勝頼の傍にありよく補佐し支えた事跡から考えて、政治・経済・行政に関する能力は優れていたように思われる。竜朱印状の発行件数の多さからも、勝頼期の武田家の軍政の中心人物であると予想できる。
[編集] 甲陽軍鑑における評価
甲陽軍鑑では武田氏凋落の端緒となる1575年の長篠の戦いで主戦論を主張し大敗を招いた責を、勝資及び長坂光堅(釣閑斎)にあるとしているが、長坂は合戦自体不参加であることや勝頼自身に宿老の意見を無視してまでの強権的行動が可能であったか疑わしい点を考えると、甲陽軍鑑の記す長篠の戦の状況は甚だ疑わしい記述と言わざるを得ない。
1578年の御館の乱における上杉景勝との交渉の場で長坂と共に賄賂を受け取ったという記述が甲陽軍鑑にあるが、これは全くの誤りである。実際の上杉との交渉は、北信・東信の責任者である武田信豊が行っている。
また1582年の武田氏滅亡時においても勝頼を見捨て逃亡したとあるが、近年では諏訪にて戦死若しくは天目山で殉死したとする説が有力である。
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