谷博
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谷 博(たに ひろし 1953年6月20日 -)は昭和後期から平成期(1970年代後半~)のプロ野球審判員。現在はセントラル・リーグ審判部部長待遇。徳島県出身。
審判員袖番号は19(1988年初採用から。氏は関西審判部の袖番号初採用年度からの生き残りで最古参である。)。
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[編集] 来歴・人物
京都産業大学を経て1976年にセントラル・リーグ審判部入局。井野修審判部長とは同期入局である(井野は公募で合格、谷はアマ時代の経験を買われて入局)。入局1年目の4月には早くも一軍試合出場を果たし(1976年4月25日、阪神甲子園球場での阪神-大洋戦)、2005年シーズン終了時点での通算出場試合数は2393試合、オールスター出場4回、日本シリーズ出場9回。シリーズ初出場は1992年の日本シリーズだが、谷部長待遇は初出場ながらこの年の第7戦で球審を務めた。長らくセ・リーグ関西審判部のリーダーとして活躍している。巷ではよく知られているバース・掛布雅之・岡田彰布らによる甲子園球場のバックスクリーン3連発。谷部長待遇はこの試合で一塁塁審をしていた。
小柄ながら的確かつ俊敏なジャッジで、井野修部長、友寄正人副部長と並び、近年における名審判の一人に数えられる。2006年より、役職が副部長から「審判部部長待遇」と事実上の昇格人事となった。永年の実績が認められた証であり、これからもますますの活躍が期待される。当面は2500試合出場が目標となるが、2006年シーズン中に到達する可能性もある。
[編集] 微妙な判定
2006年8月9日の東京ヤクルトスワローズ―読売ジャイアンツ戦(神宮)において、二塁塁審を務めた谷は、九回表李承ヨプの打球を左翼手アレックス・ラミレスが直接捕球したと見てアウトの判定を下したが、実際にはワンバウンドしていたことがテレビ中継の映像で判明している。また2006年8月10日の東京ヤクルトスワローズ―読売ジャイアンツ戦(神宮)において、三塁塁審を務めた谷は、七回表の矢野謙次の三ゴロの打球を処理した岩村明憲の足が三塁に触れていなかったとして二塁走者の三塁フォースアウトを認めなかったが、この判定も誤りだったことがやはりテレビの映像により判明している。 部長待遇を受けているセ・リーグを代表する審判がこのような失態を連日犯したことは過去に例がない。
[編集] サヨナラインフィールドフライ事件
谷の名審判としての評価を決定付けた事件。
1991年6月5日、横浜スタジアムで開かれた大洋-広島戦、2-2の9回ウラ大洋の攻撃は一死満塁、大洋の打者清水義之は本塁付近に力のない飛球を打ち上げた。球審の谷博は「インフィールドフライ・イフ・フェア」を宣告した。ところが、広島の捕手・達川光男はこの飛球を意図的に捕球せず、落下後にワンバウンドで捕球した。その瞬間、プレイに関わる両チームのほぼ全ての選手は混乱を来たし、打者清水が慌てて一塁に走り出すと、塁上の走者も蹌踉とスタートを切った。
達川はそのまま本塁を踏むと、まるで勝ち誇ったかのように一塁へ送球した。併殺でチェンジだと思った大洋の三塁走者山崎賢一はベンチに帰ろうと戻る際にたまたま本塁を踏んだ。すると谷は山崎の得点を認め、試合終了「ゲーム」を宣告した。
ルールでは、インフィールドフライが宣告された場合は打者走者は、打球がファウルボールにならない限り無条件でアウトとなるため、塁上の走者には走塁の義務はなく、フォースアウトは成立しない。達川は本塁を踏むのではなく、山崎に触球しなければいけなかったのである。このプレイでは、達川にエラーが記録されているが、達川ばかりでなく、大洋の選手達(特にワンバウンドしたのを見て慌てて走った打者の清水と三塁走者の山崎)や、広島ベンチ(試合終了後に谷に抗議をしていた山本浩二監督)もインフィールドフライのルールを知らなかった可能性が高い。
球審の谷は、この咄嗟(とっさ)の出来事を完璧に裁いたナイスジャッジにより、連盟から表彰を受けている。