藤岡豊
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藤岡 豊(ふじおか ゆたか、1927年6月19日-1996年3月30日)は、和歌山県出身の日本の男性アニメーションプロデューサーである。京都大学農学部中退。
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[編集] 概要
アニメ制作会社、東京ムービー、テレコム・アニメーションフィルムの創設者である。東京ムービーの社長として、『巨人の星』『ルパン三世』など、数々のアニメの製作を手がけた。国際放映、三協映画では実写映画の製作者としても名を連ねた。野心的な企画と巧みな勧誘で、長浜忠夫、おおすみ正秋、宮崎駿、高畑勲、大塚康生、楠部大吉郎ら優秀なクリエイターを東京ムービーへ招くことに成功。楠部が東京ムービーの制作部門として結成したAプロダクションは後のシンエイ動画となった。
漫画のテレビアニメ化に飽き足らなくなった藤岡は、世界に通用する日本のアニメーションを目指してウィンザー・マッケイのコミック『夢の国のリトル・ニモ』の映画化に挑戦。東京ムービーとは別に新たにテレコム・アニメーションフィルムを設立。アニメ映画『NEMO/ニモ』の製作。製作期間は10年にも及び藤岡のライフワークとなった。『NEMO/ニモ』の失敗によりアニメ界から身を退くことになったが、その過程でテレコム・アニメーションフィルムが制作した長編アニメ映画を高畑勲、宮崎駿が監督。藤岡の試みは、東映動画の長編作品の技術をスタジオジブリへ引き継ぐ足がかりとなったと評価された。
その駆け引き好きのキャラクターは、宮崎と大塚が手がけたテレビアニメ『未来少年コナン』のダイス船長のモデルとなった。没後、東京国際アニメフェア2005で、アニメの発展に寄与したことが認められ、第1回特別功労賞を受賞。
[編集] 略歴
兵役免除が目的で第二次世界大戦中に入学した京都大学は戦後になるとすぐに中退。大阪の大丸デパートに勤務しながら人形劇を始める。清水浩二主宰の人形劇団ひとみ座の大阪公演を手伝ったことからひとみ座へ入団。はじめは台本作家を志して、脚本の執筆に挑んだが、やがて演技部に所属して、営業と声の出演を兼ねていた。1963年にひとみ座がTBSと横山光輝原作の人形劇「伊賀の影丸」制作の契約を締結。担当は、既に営業に専念していた藤岡になった。藤岡は新たに別会社として「東京人形シネマ」を設立し、1年間「伊賀の影丸」を任された。この年はテレビアニメ『鉄腕アトム』がフジテレビで放映された年でもあり、TBSが新たにアニメ進出を果たそうとしたとき、アニメ担当社員が藤岡の友人だったことから、アニメ製作の話が藤岡に舞い込む。TBSの幹部から「人形もアニメも動かないものを動かすのだから一緒」と説得され、1964年8月19日に東京ムービー設立。手塚治虫の『ビッグX』が第1号作品となった。東京ムービー設立当初の企画・演出・管理部門は、人形劇出身者で占められたが、アニメの経験者がいないことから大赤字を抱えて、東京ムービーは倒産寸前に追い込まれる。東京ムービーは国際放映の傘下で経営再建をすることとなり、藤岡は東京ムービーの取締役制作部長に降格、同時に国際放映の専務も兼任。1972年から国際放映で何本からの実写映画の企画と製作に関わっている。
[編集] 関連項目
[編集] 参考文献
- 大塚康生「リトル・ニモの野望」(ISBN 4198618909)
- 大塚康生「作画汗まみれ 増補改訂版」(ISBN 4198613613)
- 山崎敬之「テレビアニメ魂」(ISBN 4061497898)