藤原良継
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藤原 良継(ふじわら の よしつぐ、霊亀2年(716年) - 宝亀8年9月18日(777年10月27日))は奈良時代の貴族。父は藤原宇合、母は石上麻呂の娘。はじめは宿奈麻呂(すくなまろ)と名乗った。藤原広嗣の弟で反藤原仲麻呂派。弟には藤原雄田麻呂(百川)らがいる。
父親の死後、兄の反乱に連座して伊豆へと流罪にされる。2年後に復帰するが、南家・北家に比べると式家の衰退振りは著しく不遇の日々を送っていた。763年には仲麻呂暗殺計画が密告され佐伯今毛人、石上宅嗣、大伴家持らと結託したとされたが、単独犯行を主張、一人処罰を受けたとされる。仲麻呂の死後、中央に復帰して要職を歴任。称徳天皇の死後、白壁王(光仁天皇)の擁立に尽力した。771年藤原永手の死後に藤原氏一門の中心的存在となり、内臣次いで内大臣。阿倍古佐美とのあいだに生まれた娘乙牟漏は山部王(桓武天皇)との間に安殿親王(平城天皇)・神野親王(嵯峨天皇)・高志内親王をもうけている。だが、男子には恵まれず越前守などを務めた一人息子の託美が長岡京で賊に襲われて死亡すると家は断絶するに至った。
万葉集に歌はないが、天平宝字1年 (757)年12月18日、三形王邸の宴で伝誦された妻の歌(「藤原宿奈麻呂妻石川女郎薄愛離別悲恨作歌」巻20・4491番)がある。天平18年7月、大伴家持の越中守とともに、宿奈麻呂は越前守に任命されている。しかし、9月には早くも上総守に転出し、大伴駿河麻呂が越前守となっている