藤原兼雅
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藤原 兼雅(ふじわら の かねまさ、久安4年(1148年) - 正治2年7月18日(1200年8月29日))は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての公卿。父は花山院家の太政大臣藤原忠雅。母は院の近臣である中納言藤原家成の娘。従一位、左大臣。花山院忠経の父。
父忠雅の後を継ぎ中央官界に進出、平清盛の娘を妻として、平氏政権下において順調に昇進を重ねる。このため寿永2年(1183年)には源義仲によって一旦官職を追われるが、後白河法皇の信任を背景に文治3年(1187年)に元の地位である大納言に復帰、以後正治2年に左大臣に至るまで昇進を重ねた。
激動期の宮廷にあって最終的に地位を全うしたことで、後世における花山院家の発展の基礎を築いた。和歌、今様に通じた才人としても知られている。