藤原兼房
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藤原兼房とは
藤原兼房(ふじわら の かねふさ 仁平3年(1153年) - 建保5年2月22日(1217年3月30日))は、平安時代末期・鎌倉時代初期の公卿。太政大臣。「禅林寺」と号する。
仁平3年(1153年)、藤原忠通の四男として生まれる。母は、太皇太后宮大進藤原仲光女加賀。同母兄には摂政関白を務めた九条兼実が、同母弟には天台座主となった慈円がいる。
和歌を愛好して柿本人麻呂を尊敬していたが、政治的才能には乏しく、却ってそれによって源平の合戦の最中の政治的混乱を避けることができた。平氏が滅亡した元暦2年(1185年)にようやく権大納言に昇進し、5年後に内大臣へと昇進する。建久2年(1191年)、兄・兼実の後を受けて太政大臣となって5年間務める。正治元年(1199年)には47歳の若さで出家して政界を引退した。
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