芸映
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芸映(げいえい)は、東京都目黒区にある大手芸能事務所である。
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[編集] 沿革
1959年3月10日、中央区銀座8-19に「株式会社芸映」の社名で発足(初代社長・宮田重雄)。発足当時は外国テレビ映画「アラゴンの城塞」「遥かなる戦線」「忘れられた人々」「独逸かく戦えり」「命ある限り」などを輸入したり、角丸証券、東洋レーヨンなどのCF制作が中心の企業であった。1961年には、タレント伴淳三郎が、取締役に就任する。
一時期は渡辺プロダクションの傘下に入り、映画製作も行っていた。ドリフの映画・「なにはなくとも全員集合!!」などの作品は松竹で配給された。その後、独立した芸能プロダクションへ業態を変更する。その過程で1965年に㈱芸映音楽出版を設立し、渡辺プロにならって早くから自社タレントの音楽版権の管理に取り組んだ。
かつては礼儀正しく強いプロ意識を持ったタレントの育成管理に定評があった。また、これまでに所属したタレントの大半はソロであり、グループはほとんど手掛けていない。
1975年、岩崎宏美デビュー、「ロマンス」で日本歌謡大賞最優秀新人賞受賞。相本久美子移籍。
1977年、岸本加世子・清水由貴子デビュー。浅田美代子結婚引退(芸能界には後に復帰)。
1979年、西城秀樹「YOUNG MAN(Y.M.C.A.)」で日本歌謡大賞受賞。
1982年、岩崎宏美「聖母たちのララバイ」で日本歌謡大賞受賞。石川秀美デビュー
この時期、ベストテン番組や年末の賞番組、紅白歌合戦には西城、岩崎、河合が顔を揃え、黄金時代を迎える。
1983年、西城秀樹が円満退社、独立(有限会社アースコーポレーション設立)。
1984年、岩崎宏美が芸能活動の方針を巡って対立し退社、独立。神野美伽デビュー
1985年、芳本美代子デビュー、「雨のハイスクール」で日本歌謡大賞最優秀新人賞受賞。
1987年、日本武道館に於いて、当時の所属及び系列事務所タレント総出演のチャリティーイベントライブ「EARTH ARK」を開催
1989年、岸本加世子が円満退社、独立。
1990年、石川秀美結婚、引退。
1996年、河合奈保子結婚。当初は仕事を続けていたが、翌年の第一子出産を期に芸能活動を休止する。
1990年代後半は広末涼子がブレイクし、1997年の紅白歌合戦に出場すると共に、主演映画「秘密」や高倉健と共演した「鉄道員」の演技が高い評価を受ける(「所属していた主なタレント」の記述にあるように、厳密には広末涼子は芸映本体の所属ではないが、芸映公式HPの沿革で一員として扱われているため、本項でもそれに準ずる)。
広末以降、紅白歌合戦は2003年の神野美伽以外に出場は無く、各種音楽賞や芸能賞からも久しく遠ざかっている。TVの要望に応じて安定的に仕事をこなせるマルチタレントは多く、系列事務所にも有望な素材はあるものの、本体の主力には全体的に高齢化が目立ち、若手の発掘育成が目下の課題である。
[編集] 主な所属タレント
- 篠ひろ子(1973-)
- 相本久美子(1975-)
- 角川博(1976-)
- 河合奈保子(1980-(休業中))
- 神野美伽(1984-)
- 安奈淳(1984-)
- 芳本美代子(1985-)
- 西村知美(1986-)
- 櫻井淳子(1991-)
- 小出由華(1994-)
- 永山たかし(1998-)
河合奈保子は2005年6月に芸映公式HPの所属タレント一覧から項目が削除されたが、休業の長期化に伴う措置であり、退社を意味するものではないという。
[編集] 所属していた主なタレント
- いしだあゆみ(イザワオフィスに移籍)
- 左とん平
- 西城秀樹(1972-1983、独立)
- 浅田美代子(1973-1977、結婚退社)
- 岩崎宏美(1975-1984、独立)
- 清水由貴子(1977-2006、独立)
- 岸本加世子(1977-1989、独立)
- 風見りつ子(=風見律子)
- 石川秀美(1982-1990、結婚引退)
- 志村香
- 今井美樹
- 国実百合(=國實唯理、1988-1991、休業→引退)
- 山口リエ(1991-2003、Bon Vivantに移籍(2005年引退))
- 西尾拓美(1994-1996、引退)
- 広末涼子(1996-2002、所属一覧から削除)
- 後藤理沙(1997-2002、フラーム退社→関連会社JMOに移籍)
- 神谷涼(1997-2003、退社→メタルボックスに移籍)
1980年代に芸映関連のイベントに帯同する事があった菊池桃子は、系列事務所のトライアングルプロダクション所属(後に移籍)で芸映本体には所属せず、芸映公式HPの沿革にも名はない。これに対して、広末涼子と後藤理沙の所属は当時系列事務所だったフラームだが、沿革には一員として名前が明記され、2002年頃まで所属タレント一覧にも掲載されていた。
[編集] 採用経緯
- 直接スカウト
- 西城秀樹(ジャズ喫茶)、浅田美代子(街頭→外部オーディション)、角川博(クラブ)、岸本加世子(TV局見学)、神野美伽(ちびっこ歌番組)、櫻井淳子(街頭)
- 自社オーディション
- 河合奈保子、石川秀美、国実百合
- 外部オーディション
- 岩崎宏美、清水由貴子、芳本美代子、志村香、西村知美、広末涼子、後藤理沙
- 移籍
- 相本久美子、安奈淳、小出由華、西尾拓美
- 志願
- 風見りつ子
[編集] 自社オーディション
これまでに1979-80年、1981年、1987年の3度行われ、河合奈保子、石川秀美、国実百合がそれぞれ優勝し、歌手デビューを果たした。
1回目と2回目は「HIDEKI(西城秀樹)の弟妹募集!!全国縦断新人歌手オーディション」として実施し、西城も決戦大会で審査員の1人に加わった。応募書類及びカセットデモテープの一次審査と、全国主要都市で開催した本人の歌唱による二次審査を経て、東京の決戦大会*に於いて選抜した。優勝者は共に卓越したスタイルを備えていたが、主旨は新人歌手の発掘であり、水着審査などはなかった。
優勝対象者は男女各1名だったが、1・2回共に男性は応募が少なく、「妹」のみが選出されることになった(ただし、妹の肩書はデビュー直後だけで、西城と共演する仕事もそれほど多くはなかった)。
西城によれば彼自身は河合奈保子・石川秀美共に選考の過程で推薦に回ったという(特に2回目優勝の石川は彼の強い意向で選出された)。結果として2人の妹共に1980年代を象徴する女性アイドルに成長し、紅白歌合戦の出場も果たした。
3回目は「ザ・オーディション・ボーイズ・アンド・ガールズ」として実施した。この時も男性の選出には至らず、国実百合が優勝して歌手デビューに至った。
*最終選抜大会の名称は、事前に各雑誌に掲載された応募要項には「決戦大会」とあったが、1回目の会場のステージの看板には「決勝大会」と書かれていた。ゆえに当時の報道や当事者の回想などでは両方の記述が混在する。