米沢彦八
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米沢 彦八(よねざわ ひこはち)は落語家の名跡。米澤 彦八とも表記する。
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[編集] 初代
初代 米沢 彦八(よねざわ ひこはち、生没年不明)は、江戸時代中期の落語家。一部書籍では1714年(正徳4年)に興行先の名古屋で死去したとされている。本名は不明。
当時の生玉(いくたま)神社(現在の生国魂神社)境内は、大道芸人が技を競いあい大いに賑っていた。そのなかで彦八は人の足を止めて注目させるため、「仕形物真似(しかたものまね)」「軽口咄」と言われる歌舞伎や能の役者の物まねを演じ、これが人気を博すようになった。(『大阪生玉社前の図』にはその模様が描かれている。)この話芸は「彦八ばなし」と呼ばれ、のちの上方落語の原型になったといわれる。そのため、初代露の五郎兵衛、鹿野武左衛門らと共に、「上方落語の始祖」や「落語家(落語)の祖」と呼ばれる。 著書は『祇園景清』や『当世軽口集』、『軽口大矢数』など。
[編集] 二代目
2代目 米沢 彦八(よねざわ ひこはち、生没年不明)は、享保時代に活躍した落語家。本名や初代との関係は不明。三味線や小道具を使って辻話を披露していた。
[編集] その後
明治時代、特に天満の天神橋界わいには、8軒の寄席があったため「天満八軒」と呼ばれるなど多くの寄席が存在したが、昭和に入り戦後の混乱の中で、寄席は消失し上方落語も衰退した。 その後、3代目桂米朝、6代目笑福亭松鶴らの復興活動により、1957年(昭和32年)には上方落語協会を設立するまでになった。 そして1990年(平成2年)、米沢彦八の功績に敬意を表すため、かねてより建立を発案していた松鶴の5年忌に一門が遺志を継ぎ、松鶴の命日である9月5日に、上方落語協会の総意で生国魂神社に「彦八の碑」を建立。その翌年から、上方落語の伝統を身近な人々に広くアピールする目的で「彦八まつり」が開催されている。
[編集] 出典
- 『圓生古典落語』 (三遊亭圓生、関山和夫監修、集英社<文庫>、1979年)
- ラクゴロク 『実録・枝雀師匠に入門志願』松尾貴史 - asahi.comの記事