神尾春央
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神尾 春央(かんお はるひで、貞享4年(1687年) - 宝暦3年(1753年))は、江戸時代の勘定奉行。苛斂誅求で知られた酷吏。
貞享4年(1687年)、下嶋為政の次男として誕生。母は館林徳川家の重臣稲葉重勝の娘。長じて旗本の神尾春政の養子となる。元禄14年(1701年)仕官。賄頭、納戸頭など経済官僚畑を歩み、元文元年(1736年)勘定吟味役に就任。さらに翌年には勘定奉行となる。
時に8代将軍徳川吉宗の享保の改革が終盤にさしかかった時期であり、勝手掛老中・松平乗邑の下、年貢増徴政策が進められ、春央はその実務役として積極的に財政再建に取り組み、租税収入の上昇を図った。特に延享元年(1744年)には自ら中国地方へ赴任して、年貢率の強化、収税状況の視察、隠田の摘発などを行い、百姓たちからは大いに恨まれたが、その甲斐あって、同年は江戸時代約260年を通じて収税石高が最高となった。
しかし、翌年松平乗邑が失脚した影響から春央も地位が危うくなり、担当していた金銀銅山の管理、新田開発、検地奉行などの諸任務が、春央の専管から勝手方の共同管理となったため、影響力は大きく低下した。
宝暦3年(1753年)、没。およそ半世紀後の本多利明の著作「西域物語」によれば、春央は「胡麻の油と百姓は絞れば絞るほど出るものなり」と述べたとされており、この文句は春央の性格を表すものとして、また江戸時代の百姓の生活苦の形容として人口に膾炙している(ただし、逆に貧農史観のイメージを定着させてしまったともいえる)。
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