田沼意正
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田沼 意正(たぬま おきまさ、宝暦9年(1759年) - 天保7年8月24日(1836年4月21日))は、陸奥下村藩の第5代藩主。遠州相良藩の初代藩主。父は田沼意次(意正は四男)。母は田代氏。初名は忠徳。通称は金弥、玄蕃。官位は従四位下玄蕃頭、内膳正。
1774年7月27日、水野忠友と養子縁組、その娘と結婚した。水野忠徳と名乗る。1775年11月15日、将軍徳川家治に御目見した。同年閏12月11日、従五位下中務少輔に叙任した。しかし、1786年9月5日、父意次の失脚により、養子縁組を解消されて田沼家に戻された。このとき、母方の姓である田代を称している。
1804年7月26日、陸奥下村藩主田沼意定の死去により、末期養子として家督を相続した。同年10月1日、将軍徳川家斉に御目見した。同年12月16日、従五位下玄番頭に叙任した。後に内膳正に改める。1806年6月1日、大番頭に就任した。1819年8月8日、若年寄(西丸)に就任した。1823年7月8日、将軍・徳川家斉の尽力もあって、旧領である遠州相良への復帰を許された。1825年4月18日、側用人(西丸)となった。同年12月、従四位下に昇進する。1834年4月26日、側用人を病気を理由に辞任する。1836年4月21日、隠居し、長男意留に家督を譲った。同年8月24日、78歳で死去した。墓所:東京都豊島区駒込の勝林寺。
正室は水野忠友の娘(離婚)。長男意留、次男柳生俊能(柳生俊章の養子)らの子女あり。
- 田沼氏(下村藩5代)藩主
- 1804~1823
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- 先代:
- 田沼意定
- 次代:
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- 田沼氏(相良藩初代)藩主
- 1823~1836
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- 先代:
- 田沼意明
- 次代:
- 田沼意留