潘濬
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
潘濬(はんしゅん、174年?-239年)は、中国の三国時代に劉表、蜀、呉に仕えた武将。字は承明。潘翥・潘祕の父。
武陵郡漢寿の人。二十前後の時、宋仲子から学問を授けられた。この頃に、山陽の名士・王粲から『聡明な資質を持ち、人との応対は機敏、その言葉は理論だっている』と高く評価され、この事から荊州になりひびく名声を得た。三十にならないうちに荊州牧・劉表に召し寄せられ、江夏郡の従事となった。当時、江夏郡は汚職官吏の横行によって統治が乱れていたが、潘濬は彼等を法に照らし合わせて処罰したので、民衆は彼の厳格な法の適用を恐れ、郡を挙げて従うようになった。後、湘郷県でも優れた治績を上げ、人々の評判は極めて高かった。
劉表死後は劉備に仕え、荊州の従事を務めた。劉備が蜀に入ると、荊州に留められ、州の事務を一任される事になった。このように、劉備には信任されていたが、荊州の督であった関羽には麋芳・士仁と同様に疎まれていた(季漢輔臣賛による記述)。
219年、呉の計略によって麋芳・士仁が裏切り、関羽は斬られ、荊州の諸郡は呉の物となった。その後、荊州の部将や役人は全て呉に帰順したが、潘濬は出仕せず、一人隠棲していた。孫権は部下に命じて潘濬の家に行かせ、彼をベッドに括りつけて自分の家に連れてこさせると、自らその説得に当たった。潘濬はその場で冶中に任命され、輔軍中郎将を任じられ、荊州の軍事を委任された。まもなく、奮威将軍に昇進し、常遷亭侯に封じられた。
220年、武陵の役人であった樊抽が異民族(武陵蛮)をまとめあげ、夷陵の戦いに向けて東進する劉備に呼応しようと計画した。孫権は潘濬に仮節を授けて諸軍を統率させ、歩騭とともにその鎮圧に当たらせた。潘濬は信賞必罰をもって軍規を徹底した上で討伐にあたり、異民族を鎮撫する事に成功した。
222年、孫権が皇帝となると、少府に任じられ、やがて太常に昇進した。この頃、歩騭が荊州での軍権の拡大を図り、私兵を雇う事を孫権に願い出た。孫権は、歩騭がこの地方で軍閥化をする事を危惧した潘濬の意見に従ってこれを許さなかった。
231年、呂岱とともに五谿の異民族(五谿蛮)を討伐し、これを鎮撫する事に成功する。異民族討伐を終えると、陸遜とともに江夏郡の守備にあたった。この頃、孫権に寵愛された呂壱が家臣の昇進や処罰をみだりに行い、権勢をほしいままにしていた。潘濬は、丞相の顧雍や左将軍の朱拠も軟禁されるような宮廷の乱れ様に怒り、同様にこれを悲しんでいた陸遜と協力し、呂壱を排除しようと計画した。呂壱は、丞相・顧雍の後任に潘濬が当てられる事を聞くと、あわてて顧雍を釈放し、一方の潘濬は、百官を集めた席上を利用し、呂壱を手ずからに斬り殺そうと計画したが、呂壱が計画を事前に察して参内を避けたため果たせなかった。
計画が失敗した後も、潘濬は孫権に目通りする度に呂壱の悪事を糾弾した為、孫権の呂壱への寵愛もやがて失せ、238年に呂壱は処刑された。孫権は、自らの不明を百官にわびるとともに、潘濬のように呂壱の悪事を諌めなかった重臣も同時に糾弾した。
239年、死去した。